迷信

お寺は迷信に接する機会が多いです。機会が多いというより、「それは迷信だ」という区別が付いてしまうというべきかもしれません。普通であれば迷信かどうかも考えもせずにいることを、仏の教えに照らし合わせてしまうから。

迷信だからと言って、それを簡単に否定するわけにもいかないのが難しいところです。和尚の発言力よりも、一族の長老の発言力の方が強い場合も往々にしてあります。どちらがより良いかはケースバイケースでしょうけれど。

結果があれば原因がある。なにごとにおいても。それはお釈迦様の教えの根本です。ですから、迷信が生まれたのにももちろん理由があり、そして現在に至るまでの歴史があるわけです。だから迷信と言っても、それが間違っているとか、そういう程度の問題ではないんですよね。

ただ、行き過ぎた部分があれば是正することも必要です。そのバランスは難しいですが。こうやって書いてても、具体例を挙げられずにいるくらいですから。

迷信よりも例を挙げやすい事象として、神道との混合がありますね。火葬場から帰ってきたら塩をもらいますよね。あれは、仏教徒の場合は必要ないんです。(表現が適切かどうか不安ですが)死を嫌う神道ではいろいろなところで清めというものが存在します。この塩もその一つだと思われます。神仏混合の時代があったため、仏式であっても塩が必要とされるんですよね。

でもね、これもまた難しいところがあります。私の地域では、仏教徒であっても神棚があります。みんな氏子なんです。そういう地域が日本のほとんどを占めるのではないでしょうか。これも神仏混合の時代があったから。原因はといえば、廃仏毀釈を逃れようとした仏教教団にあるんでしょうけれどね。

仏式で葬儀を行っても、氏子でもあるのですから塩で清めるのは不自然で無いとも言えるわけです。よその国の人には理解しづらい部分でしょうけれど、日本においてはむしろ自然かもしれません。





考え方の基本は、その考えがその人のためになっているかどうか、です。迷信だって信じれば真実です。それが好影響を及ぼすのであれば私はそれで良いと思います。塩で清めるのだって、それで気が落ち着くならば。

ただ、塩で清め忘れたためにそれをずっと不安に思うのであれば、そのときは「仏教を信じるあなたには、浄も不浄もないんだから、清める必要なんてないんですよ」と言ってあげたいです。

歴史の中でいろんなことがこねくり回されてとても複雑になっています。でも、求めることはとてもシンプルです。それを見失わないように、たくさんの人を導いていける和尚になりたいです。

制作・著作 宗教法人正太寺