仏教で言えば、お題目を唱えたりすること。
キリスト教などの一神教で言えば、神様にお願いすること。
これらはいずれも他力本願。
神様にお祈りするだけなら、他力本願とは言えないかも。でもお願いは、間違いなく他力本願でしょう。
とにかく、自分以外の存在に頼ることが、他力本願と考えると分かりやすいでしょう。
自分が窮地に陥ったとき、助けを求める見えない存在がいたら、どれほど心が安らぐことでしょう。
その一時の安らぎが、窮地から脱する術を思いつくきっかけとなるかもしれません。他力本願の実利を考察すれば、こんな考えも出来る、という一例で、それがすべてではありませんけど。
もっとも、宗教の大原則は「信じること」。神様などを信じて行動することが、あなたを窮地から救いもするし、命を落としたとしても天国・極楽に召されるわけです。
ところが、我が曹洞宗は自力本願とも言える教えを説きます。
誰に頼るわけでもなく(助けは必要ですけど、求めはしない)、仏の教えのみを信じて行動するわけです。
(書いてみて気付いたんですけど、言葉にすると他力本願との違いは微妙ですね(笑))
たとえば、窮地に陥ったときは、神様仏様に助けてくださいとお願いするわけではなく、それまでに身に付けた仏の教えに則って行動するのです。
信じるものは、今までの自分の修行と、それの基となる仏の教え。つまりは結局、仏の教えのみを信じる。
神様がきっと助けてくれる、と信じるわけではなく、仏の教えに従っていれば必ず助かると信じるわけでもなく。仏の教えのみを信じて行動し、結果が第一ではない。
つまり、窮地に陥ろうと陥らまいと、することに何ら変わりはないと言うことですね。
仏教は、窮地を脱することを目的としているわけではなく、平穏に生き抜くことを目的としているわけでもない。
仏教は目的でも手段でもない。ただ平穏な心を求める人への、確かな道しるべ。
そんなわけで。
曹洞宗のウリである坐禅、坐禅すると、落ち着きますよ。
坐禅をするのは自分ですから、まさに自力本願。
独りよがりでは困るけれど、他人任せも困りもの。
自分の人生ですもの。自分の力で生きていきましょう。
ちなみに、曹洞宗の僧侶が仏様に合唱礼拝するのは、何かをお願いしているわけではなく、仏の教えに感謝している姿なのですよ。体の良い言い訳のようにも聞こえますが、この違いはとても重要なんです。じゃないと、曹洞宗自体が成立しませんからね。
