コラム 2002年

4

 4という数字は不吉だと言われます。はたして本当にそうなのでしょうか?4の復権を試みたいと思います。


 もちろんみなさん、そんなものは迷信であるというのはご承知でしょうけども。でも何となく気になりますよね。
 だから、みなさんが考えているであろうことをここで改めて示すことによって、自信をつけていただこうというわけです。



 不吉である理由としてよく言われるのは「4」=「し」=「死」という説。4という数字の読みが、死を連想させるから不吉だというのです。

 ほかにもあるかもしれませんが、とりあえずこの説に対する対抗手段を考えましょう。

 まず、その読み方について。4を「し」と読むのは、一部の言語地域の人たちだけです。中国語で何と読むのか分かりませんが、代表的なのは日本語ですよね。訓読みでは「よん」、音読みでは「し」となります。

 でも、4という数字は世界共通です。読み方は言語によって様々です。一つの言語の読みが死を連想させるからと言って、はたして不吉だという理由になるのでしょうか。
 そんなはずはないですよね。


 まずはこんなところでしょうか。
 次は視点を全く反対側に持っていってみましょう。つまり、死は不吉だというが、本当に不吉なのか?ということです。

 人は死を忌み嫌います。死の恐怖から逃れるために宗教に頼ることもあります。しかしそれでも、死は誰にでも訪れます。今までに、死から逃れられた人はいません。死は、絶対なのです。
 生まれた以上、必ず死は訪れます。

 そう。「死」は、人に対してこれ以上ないほどに平等な出来事なのです。
 こんなにも平等な出来事を、「吉」と「不吉」という分別の仕方をして良いものなのでしょうか。

 人は死を恐れるあまり、死を不吉なものとしてしまいました。しかし「死」、それ自体はなんら不吉なものでもなく、人に対して平等に訪れる人生の1ページでしかないことがお分かりいただけたと思います。

 人は「死」にたいしてあまりにひどい扱いをしていますね。もっと死について考えるべきでしょう。
 また、その死を読みが連想させるからと言って不遇な扱いをされている「4」もかわいそうです。そろそろ名誉を回復してあげても良い頃ではないでしょうか。


 とかく人は、ほんの些細なことから想像力を膨らませて、勝手に「吉」「不吉」という区別をしてしまいがちです。しかし、それがかえって自分の首を絞めていることに、気が付かなければなりません。

 4を不吉とするあまり、ものが4つそろうのをさけてみたり、部屋番号は4をとばしてみたり。余分な苦労を自らの手で増やしています。

 それらを一気に解消するのはおそらく無理でしょう。このひとりごとを読んでその気になったところで、世間の「常識」の壁は厚いのです。

 だからまず、こつこつと。身の回りでこつこつと。他人に押しつける必要はありません。4は不吉じゃない!と声高に叫んでみたところで、「それは分かるけどでもそれじゃ世の中渡っていけないよ」となってしまいます。

 だから、人に迷惑のかからないことからこつこつと。
 ・・・こつこつやるのは苦手ですか?それが一番の早道だと信じてください。信じれば、それが真実です。

お焼香の後に、手は拭かない

 お葬式の時、お焼香をすると葬儀屋さんがお手拭きを渡してくれることがあります。

 香をつまんで汚れた手を拭いてくださいという、粋な計らい。葬儀屋さんもなかなか、気が利きますねぇ

 そうじゃなくて。
 お香はきれいなものです。汚れたものをお葬式の場で燃やすわけないじゃないですか。

 また、お葬式の場は何となくケガレているような気がするから、手を拭くことによってケガレを落とした気持ちになる。思うにそれが、お焼香の後に手を拭くという行為の本質なのではないでしょうか。

 お香はきれいなものという先の文と思い切り矛盾しますが、仏教ではきれいなものと汚いものなどという区別はしません。すべての存在は「ただ、それ」であるだけで、それに付随するさまざまな属性は、人間が後から理屈をこねてくっつけただけに過ぎません。

 もちろん、ケガレというものも存在しません。すべて、人間の頭の中で作られたものなのです。それに縛られていることの、なんと不幸なことか。



 あなたの信仰がどうであれ、仏式のお葬式に参列するということは、仏教の教えに従って故人の冥福を祈るということであり、故人もまたそれを望んでいるということです。

 だから、手を拭かないようにしましょう。その行為は仏教の教えを否定して、きれいなものと汚いものという区別をするということ、きれいな場とケガレた場とを区別するということ。

 知らなかったのならば仕方のないこと。しかし、あなたは今、知ってしまった。
 差し出されるお手拭きを断る必要はありません。いただいた後、手を拭かずにしまってしまえばいいことです。

 仏教というのは、哲学・思想を突き詰めることが目的ではなく、その教えを実践すること、行動に表すことがすべてです。

月命日にはお墓参りに!

 毎月やってくる月命日。命日の月違い(日だけ同じ)の日のことです。お墓参り、行ってますか?祖父母もしくは両親の月命日ぐらいは、お墓参りに行きましょう。毎月お寺へお墓参りに行ってると、お寺がグンと身近になるはずです。

 といってる私は、あまりお墓参りに行ってません。お盆とお正月とお彼岸と、年に4回ぐらいかな。少ないです。お墓がすぐそばですから「行くぞ!」という気になれないんですよね。

 などというのは言い訳でして。こうして「ひとりごと」で取り上げるのも、自分に言い聞かせるためだったりします。

 幸い私の両親は健在ですが、祖父は早くに亡くなりまして、私が3歳の時でした。面影も思い出せないほどです。祖母は中学生の頃に亡くなりましたが、数年間寝たきりであったために、遊んでもらったりいうことが少なく、そのぶん思い出が少ないです。

 そういうこともあってあまりお墓参りに行かなかったのですが、最近、お墓参りをするという行為は、考えている以上に大切なこと何じゃないかと思い始めたのです。

 単に先祖供養のためとか、そういうことだけじゃなくて、もっと崇高な気持ちになれるような。

 頻繁にお墓に来る人と話していると、ギスギスしている感じのひとは皆無です。お参りをするうちに、いつのまにか人間形成がなされているんじゃないかと、思うのです。


 考えてみればご先祖様にお参りをするという行為は、たいていの場合、「ご先祖様のために」お花をかえたり、お水をかえたり、掃除をしたり、とするわけですから、「自分のため」という気持ちではそう長く続かないんですよね。

 お墓参りをするうちに、しらずしらずに「自分以外のひとのために」何かをしている。そういう気持ちを大きく育てている。

 なにか、今まで思いもしなかったほど、とても良いことのように思えてきました。


 だからやっぱり、月命日にはお墓参りをしましょう。月命日ぴったりとはいかなくても、月に一度ぐらいなら、なんとか時間がとれるのではないでしょうか。お墓が遠いと難しいですけど、近くにお墓があるなら、お墓参りに行っても、かかる時間は15分程度。往復の時間を合わせても大した時間ではありません。

 もっと気軽に、構えずに。お墓参り、しましょう。私も、心がけてお墓参りしますから。

 雲は良い。

 雲を見ていると、世の中が無常であることがありありと感じられる。

 常に姿を変え、一定の形でいることがない雲は、なにもかもが変化し続けていくのだということを、我々に教えているようでもある。

 言葉すらも一定の意味を表し続けられないことを、雲は、私の脳に、訴えかけてくる。


 「雲」と聞いたとき、あなたはどんな雲を思い浮かべるだろうか。
 入道雲、ひつじ雲、雨雲、雷雲
 それとも、青空に一つだけぽかっと浮かぶ雲だろうか。

 きっと、頭の中に思い浮かべられた雲は、人によってそれぞれで、一つとして同じ形のものはないのであろう。

 自分の気持ちを言葉で伝えることが、いかに難しいことであるか。分かっていただけただろうか。


 その「言葉」に、人は頼りすぎているように思う。
 人類史上、言葉ほど、自分の気持ちを伝えるのに適したものはないかもしれない。
 そうであったとしても、言葉が伝えられることの限界というものは、先ほど示したとおりだ。

 どんな形容詞をつけても、自分の思い描いた雲を、言葉だけで伝えることは不可能だ。それなのに人は、言葉だけですべてが伝えられると、「思い込んで」いるのではないだろうか。

 言葉の限界を自覚していても、いつのまにか、言葉の魔術に惑わされているのではないだろうか。


 では、どうやって気持ちを伝えるのか?
 ありとあらゆるすべを使って、体全身を使って、瞳を使って、もちろん言葉も使って。
 それでも、気持ちを正確に伝えることは不可能だと、覚悟する必要がある。
 「無理なのだ」と。気持ちを正確に伝えることは不可能なのだと。
 100%伝わることを、望んではいけないのだ、と。


 それでも、ふとした瞬間に、驚くほど正確に、相手に気持ちが伝わることがある。
 言葉など、発していないのに。何も、語っていないのに。
 人というのは、つくづく不思議な生き物だと、思う。

おじさんの呼び止め方

 前を走る車のブレーキランプが片方切れている。教えてあげた方がいいのかな。

 走りながら車内を伺うと、乗っているのは運転手一人。頭の形からして、どうもおじさんのようです。

 この先に信号があるから、信号待ちの時に声をかけてみようか。

 「ねぇおじさん、ブレーキランプ片方切れてるよー」


 ・・・「おじさん」じゃ失礼かな。


 「ねぇお兄さん」

 様子からして50才代に見えるし・・・


 「紳士」

 変だよね。


 「社長」

 まさかねぇ。

 考えてみれば「おじさん」というのは親類に使う言葉ですから、とても親しく呼んでいるわけで、それほど失礼というわけでもないのかな。

 それでもやっぱり「おじさん」「おばさん」は敬遠される表現のような気がするし。
 「おばさま」方は「おねいさん」と呼べば機嫌のよろしい方がおおいそうですが、かえって不機嫌になる方もいるらしいし。

 でも真剣に「おねいさん」と見間違えることもありますから失敗しても言い訳は出来るね。

 やっぱり問題は「おじさん」か。「おにいさん」と見間違えることはあまりないし・・・


 「おじさん」の代替呼称大募集です。おじさんを呼び止められないワタクシに、いい呼び方をご教授くださいませ。


 ・・・もちろん今回のおじさんにはブレーキランプが切れてることは伝えられませんでした。

雨の日の思い出

 今はもう手放してしまったユーノスロードスター。
 思い出すのは、いつも雨の日。

 運転席から上に手を伸ばすとすぐに幌に当たってしまう。頭上の空間は5センチあるだろうか。とても狭い。

 だがそのために、外界の雰囲気を常に感じることが出来る。

 雨の日に幌にふれれば、雨が幌に当たる感触が伝わってくる。普通の車にはない感覚。自分が雨に打たれているようだ。雨が、すぐそばに感じられる。

 冬の日に幌にふれれば、外の寒さが伝わってくる。現代の車とは思えないほど、外界の温度を敏感に反映する車内。

 季節が、身近に感じられる。


 残念ながら、私の今の生活は車無しでは成立しない。もちろん、無しでも生きていくことは出来るが、多くの人に会って教えを広め、自分もいろいろな考えに感化されることを望める生活は難しくなる。

 そうした生活の中で、車という文明の利器に乗りながらも、季節を感じられるロードスターは私の大切な相棒であった。その相棒と別れて、半年が経つ。

 新しい相棒は、人も荷物もたくさん載せられて、たくましく走ってくれる。雨が降っても雪が降っても大丈夫そうな、頑丈な体を持っている。
 乗っている人の命を、今までよりも遙かにしっかりと守ってくれる。

 それはそれで大切なことだ。
 だけどやはり、寂しい。


 強い雨の日は、不安に駆られる。はたして雨漏りは大丈夫だろうか。
 幌を激しく打ちつける雨が、すぐ頭上にある。

 その場面にはもう出会えないが、そのとき感じた感性は、これからも大切にしたいと思う。

やめる勇気とやめない勇気

 例えば、何かの組織の役をしているとします。自治会の会長とか、仕事のプロジェクトリーダーとか。特別な役職でなく、普通の会社員でもあてはまると思います。

 精力的に役割をこなしていたのですが、とある事情のため、その責務を全うすることが難しい状況になりました。

 このとき、無理をしてでもその役を負い続けるべきか、すぱっと辞めて、後任に任せるべきか。やめるべきか、やめないべきか。

 結論は人それぞれでしょう。がんばって続けた方が良いという人もいれば、後任に任せた方が周りのためにもなるという人もいるでしょう。
 さて、どうするべきか。

 たまには。
 そう、たまには冒険してみよう、というのが、今回の裏テーマです。

 自分の出した結論と、逆の選択をしてみましょう。
 がんばって続ける選択をした人は、やめた場合の処置に自信がない可能性があります。続けることに比べて、ですけど。その後の自分の評価とか、もし評価が落ちてしまったときに、盛り返すことが出来るのか、とか。

 やめる選択をした人は、続ける自信がない可能性があります。やめることに比べて、ですけど。これだけでも手一杯なのに、もう一つ大変なことが起こったのだから、どちらかに絞らなければやれそうにないとか、そんな時間を確保できない、とか。

 二つを比べて、何とかなりそうな方を普通は選択しますよね。
 かっこいい人は、周囲の予想を裏切って、逆の選択をしたりしますが。

 そう。そういう選択をしてみましょう、と言うことです。自分に出来そうもない方を選択してみましょうと。自分に出来そうもない方というと悔しいですから、素直に考えて出した結論の、逆をしてみましょう。

 いままでの自分の決断がどちらかに偏っていたならばなおのこと。
 自分の能力の幅が広がるかもしれません。
 うまく乗り越えられれば自信がつきます。
 乗り越えられなくても、必死になって周囲に相談をしたりするでしょうから、人間関係を新たに構築できる可能性があります。

 そしてなにより、今までにない視点をもてるようになります。これが一番のポイントです。

 自分の考えに無い結論を選択するのは勇気のいること。やめる勇気もやめない勇気も、自分の考え通りの決断であれば「当然の行動」であって「勇気」ではないのです。
 もちろん状況によっては、その決断は「無謀」ということにもなるわけですが・・・

 その辺りは周囲の人に相談すれば解決します。本当に無謀ならば、相談する人のほとんどが止めてくれるでしょうから。

 では、その辺りにも気をつけつつ、新しい自分を発見するチャンスを逃さないよう、日々心がけていきましょう。

戒律は自分のために

 戒律とは、自分のためのものである。


 曹洞宗では、殺生を戒律で禁じています。人を殺すことのみならず、むやみに動物を殺すことも、植物の生命を奪うことも禁じています。さらに、自分の命を奪うことも。

 ほかにもいくつか戒律があり、授戒会という儀式をとおして、その戒律を和尚様より授けていただけます。いわば修行の第一歩ですね。

 我々僧侶はとうぜんこの戒律を授かっているのですが、檀信徒のみなさまにもぜひ授かっていただこうと、布教を行っているわけです。

 それはともかくとして。


 いま解説したとおり、戒律は授かるものです。いただくものです。けっして強制されるものではありません。
 戒律を犯したときは、自分で自分を律する必要があります。修行が未熟なうちはそれができないため、先輩の僧侶に厳しく指導していただくことになります。

 この指導だけをみてしまうと、いかにも戒律を強制されているようですが、何度も言うとおり、戒律とは授かるものです。自分の意志で、授かるものです。


 なぜ何度も同じことを繰り返し書いているかと言いますと。
 最初に書きました、殺生を禁じる戒律。自分の命を奪うことも禁じていると書きました。単純に表現すれば、自殺はいけないこと、と言っているわけです。

 ここで注意しなければいけないのは、戒律で禁じているからといっても、自殺した人を責めて良いわけではないということです。戒律とは、あくまで自分を律するためのもの。人に押しつけるためのものではないのです。

 それゆえに、我々僧侶は、自殺した人でも他との別なく、葬儀を営むのです。
 ちなみに曹洞宗の葬儀は、先に述べた授戒会を含んでいます。授戒した後、弔われます。

 戒律とは、自分のためのものなのです。他人に強制するべきではありません。もっとも、授戒した人が戒律を犯している場合は、ともに修行している身として、厳しく注意をするのは当然ですね。

 では、授戒をしていない人が戒律に反した行いをしている場合はどうしたらいいかと言えば、こうした戒律があるから、こうしたほうがいいのでは、と提案するのが良いのではと思います。

 無理に押しつけるのでは反発をされるだけですから、やんわりと伝えましょう。そうやって、一人でも多くの人が戒律を守って生活していけば、この世の中、平和になるんですよね。


 平和な世の中に、早くなってほしいなぁ。

聞き出し上手

 「聞き出し上手な人」っていますよね。

 「聞き上手」とは違って、「聞き出す」のが上手な人。

 分からないことがあったりしたときに、躊躇なく人に聞くことが出来る人、そしてそれが、絶妙にうまい。相手を困らせることなく(=また聞きに行っても相手は答えてくれる)自分に必要なことをしっかり聞いてくることが出来る。

 うらやましいですね。

 私はうまくできません。元来会話が苦手なので、聞きに言っても嫌な「間」が出来てしまいそうな気がして、行動に移しづらいのです。

 だから自分で調べる。ひたすら調べる。

 そのおかけで、分からないことがあったらまず自分で調べる癖はつきました。
 でも柔軟性がないんですよね。

 「このことはあの人ならきっと知っている」ということでも、聞くのをためらって自分で調べてしまう。
 それで調べがつけば良いのですが、 調べでも分からなかったときに、自分で調べたということに満足してそれっきりになってしまうこともしばしば。

 これではいけません。

 なんとか改善しなければ。人生は短いんです。のんびりするときは必要ですが、それだけにやるときは効率的にピシッとやらないと。

 人に聞いてばかりでは困りますが、調べて分からなかったときにちゃんと教わるようにしないと。

 で、どうしたらいいかというと・・・どうしたらいいんでしょう。
 誰か教えてくださいな。

 てことを聞き出し上手な人のところに聞きに行かなければいけませんね。なにはなくともまず実践と言うところでしょうか。いやはや先生、厳しいですなぁ

弱音

 弱音を吐きたくなるときがあります。

 例えばボランティアをしているとき。主にイベントの企画や運営をしていますが、当日になると逃げ出したくなります。
 計画通りにことが運べばいいのですが、そんなことは、まれ。必ずハプニングがあり、素早い対処を求められます。

 昨年暮れにはじめて「総括」という責任ある立場を任され、うまくできなかったことが、自分のなかで消化できていないのかもしれません。

 最近それとは別の団体のイベントで、「総括」を任されました。どうもぎこちない自分がいました。まず、自信がない。力押しは得意だけれど、それがあとからどう評価されるのか。すごく心配。

 案の定ハプニングが起こり、力押しで解決を図り、直前に強烈な反対意見を伝えられて解決法を変えるということがありました。

 そういうときに限って「周りの意見を聞いてから」という大事な姿勢が欠けているんですよね。。。普段は控えめで自分の意見なんかそれほど主張しないんですけどね。

 みんなの意見として「総括」を任せられたのだから、切羽詰まったときの独断は許されるべきでしょう。でもそれは、たとえ独断であってもあとから理解が得られる必要があるんです。

 私にはそれが出来ない。
 出来なかった。

 だからもう、やりたくない。

 ボランティアですから、やりたくなければやらなければいい。企画を立てている途中でもない今なら、やめることは簡単です。

 とはいいつつも。
 逃げたければ逃げればいい、と言葉を置き換えたとたん、絶対にやめたくなくなります。

 時として、立ち止まることも必要でしょう。一時的に逃げることもあるでしょう。


 でも。
 最終的に逃げたまま終わったのでは、自分に納得できません。

 だからやっぱり、このまま続けていくのでしょう。
 どんな思考ルートをたどってもたどり着く結論はいつも同じ。
 そのことが、自分を苦しめる一番の原因かもしれませんね。

 自分で自分を苦しめている。短絡的に考えればそうなるのかもしれません。
 それでも。
 ボランティアをしているとたくさんの笑顔に出会えます。そのためだったら、苦しんでも良いかなぁと、思うんです。

幸せって何ですか?

 幸せって何ですか?

 お金があること?
 たくさんの使用人を召し抱えて、身の回りのことはすべて任せて、社交界にでも出かけて。

 それが幸せ?

 突然お金がなくなっちゃったら、自分の身の回りのことさえ出来ないあなたは、今日生きていくことすら大変なことになってしまいますよ。

 そんな不安定な生活が、本当の幸せ?

 自分の足でしっかり立てることは、幸せの最低条件。
 お金持ちで裕福もいいけれど、自分の足でしっかり立てなければ、それは砂上の楼閣です。

 自分の足で立ち、しっかりと歩む。
 いわゆる平凡な日々。
 でも、それが幸せの最低条件。

 平凡な日々。平凡。
 平凡に生きる日々。
 けど平凡って、なにが平凡?世間の平均が平凡?
 考えてみると難しい。

 平凡とは、自然体のこと。

 じゃあ自然体になるには、どうすればいいの?

 えとね、自然体に必要なものはね・・・

 向上心でもなく、努力でもなく、誠実さでもなく。
 反対に、怠惰でもなく、不真面目でもなく、手抜きでもなく。

 わかりにくい?

 生まれたばかりの赤ちゃんを考えてみましょう。
 赤ちゃんは、何の勉強もしてないのに、お腹が減ったことが自分で分かるし、痛みも感じることが出来るし。泣くこともできるし、笑うこともできる。人間に必要な最低限の機能はちゃんとものは備えているんです。

 すごいことだと思いませんか?赤ちゃんでも、成人した人間と、大して変わらないんですよ。

 そしてね。この赤ちゃんの状態こそが、自然体であり、平凡であるのです。
 努力をしているわけでもなく、それでいて怠けているわけでもない。
 泣くにしても笑うにしても、それはとても素直な感情表現。欲も分別もないんです。

 人間は成長するに従って、競争心とか、執着心とか、がんばらなくちゃとか、しっかりしなくちゃだとか、いろんなものを身につけていきます。

 でもそうやっていろいろ身につけていくと、いつのまにか欲やら分別がでてきて、自然体を失ってしまうのなのです。

 人間は成長すれば必ずそれらを身につけてしまうけど、それは自然体とは全く逆になることなんです。

 平凡になる、自然体になる、ということは、自然体であったときの自分を取り戻すこと。つまり、赤ちゃんの時の心を取り戻すこと。

 それが出来てようやく、本当に平凡な日々を送ることが出来るんです。大変ですよね。

 だから、それが出来た人のことを、「仏様」と敬意を込めて呼ぶのです。

 ・・・でもそうやって考えると、「仏様」になれそうな気がしませんか?平凡な日々が送れれば仏様だなんて、簡単そうな気がしますよね。

 そうなんですよ。
 仏様になるのはそんなに難しいことじゃないんですよ。
 だから、みんなで仏様になりましょう。平凡な日々を送りましょう。

 そして幸せになりましょう。

長生きということ

 目の前に100歳の人がいる。
 あなたは尊敬しますか?

 ある時お寺で会議が開かれました。議題も終え、雑談をしていたとき、70歳目前の人がこんなことを。
 「となりの地区には100歳ぐらいの人がいっぱいいるんだってね」

 初耳でした。でも、周りの人も同じことを言います。どうやら事実のようです。
 同じ人が
 「(100歳まで)まだ30年もあるなぁ」


 私は今年27歳。「まだ30年も」の30年にも満たないんです。このとき初めて、100歳ということ、長生きということ、それがいかに非平凡であるかに気がつきました。

 長生きをするということは、それだけで大変なこと。漠然と感じていたよりも、もっとずっと大変なこと。
 世間では、あまり長生きすると煙たがられるような風潮もありますが、とんでもない。100歳の人は、自分には出来ないかもしれない、いや、出来ない可能性の方が高いことをしているんです。


 尊敬します。
 長生きは、非平凡。それだけで、強烈な個性と言えます。私にはこれほどの個性はありません。
 尊敬します。
 私の何倍も生きている大先輩ですもの。


 100歳まであと73年。私はこの先、どんな人生を送るのだろうか・・・

お墓参りへ行こう!

 お墓参りへ行こう!

 >なぜ?

 お墓参りへ行こう!
 なぜなら、お盆だから。

 お墓参りへ行こう!

 >何でお盆だと、お墓参りへ行くの?

 お墓参りへ行こう!
 お盆はお墓参りにいくものなのさ。細かいことは気にするな。

 お墓参りへ行こう!

 >そんなんじゃ納得できないよ。

 お墓参りへ行こう!
 納得なんてしちゃいけない。いつまでも追求し続けるんだ。

 お墓参りへ行こう!

 >答えになってないよ。だからなんでお墓参りへ行かなきゃならないのさ。

 お墓参りへ行こう!
 行くと言ったら、行くんだよ。

 お墓参りへ行こう!

 >ふーん。行ってらっしゃい。

 お墓参りへ行こう!
 そんなこと言わずに一緒に行こうよ。

 お墓参りへ行こう!

 >一人で、行ってらっしゃい。

 お墓参りへ行こう!
 一人より二人、二人より三人、たくさんで行った方が楽しいじゃん。

 お墓参りへ行こう!

 >お墓参りって、楽しいの?

 お墓参りへ行こう!
 う、うん。楽しいよ。楽しいからさ。一緒に行こうよ。

 お墓参りへ行こう!

 >しょうがないなぁ。

 お墓参りへ行こう!

 お墓参りへ行こう!

 >はいはい。お墓参りへ行こうね。

道しるべ

 思うに、お盆ほど一年を振り返るに適した時期はないだろう。

 昨年夏から一年間に亡くなった人を振り返り、偲ぶ。お施餓鬼にお寺に来れば、そのお寺のお檀家さんで今年亡くなったひとのいるお宅が全員集まっている。

 そう言えば、あのお宅でお葬式があったときはあんなことがあったなぁ・・・

 などと、全然関係ないことを考えたりもする。それにつられて、一年間の記憶が蘇ってくる。

 年を分ける年末年始は、気ぜわしく思い出に浸るどころではない。

 だがこの時期であれば、暑さでぼーっとする時間が多くなる分、記憶を紡ぎ出す機会も増える。

 終戦記念日もあり、数十年前に思いを馳せることもある。
 先祖供養にちなみ、やさしかったおばあちゃんを思い出すこともある。

 過去一年の記憶にふれたのをきっかけに、いろんな記憶があふれ出してくる。
 その時々の思いも連れて。

 人の心は移ろいやすい。
 だが、あの時のあの思いは、いつまでも記憶の中にある。

 思うに、お盆ほど一年を振り返るに適した時期はないだろう。
 一年と言わず、記憶の彼方に埋もれた様々なものを、この機会に思い出してみよう。
 今の自分を構成する要素を、自分の目で確かめることもできるかもしれない。

 記憶はあなたにとって大切な道しるべ。
 自分の道を歩むためには、道しるべをしっかりと見つめないとね。

後ろ姿

 車の後ろ姿って、いろいろですよね。
 車種ごとにさまざまで、同じ車種でも年式によってさまざまで。

 そんなこと言えば正面だっていろいろなんですけど、思いを馳せるなら後ろ姿でしょ。

 きっと、車の開発に携わっている人なんかは、自分が関わった車の後ろ姿を見るたびに、

 「苦労したよなぁ」

 とか、

 「上司に怒られながら造ったんだよなぁ」

 とか、

 「あのころ付きあってた子とは・・・」

 とか、

 まあ、いろいろ、思い出してしまうんでしょうね。

 そんなこと言ったら電化製品とか、家とか、そりゃあもう、いろんなものに当てはまりますけどさ。

 思いを馳せられる後ろ姿を持っているものってあまりないでしょ。
 電化製品の後ろ姿を見て思いを馳せるのはかっこよくないかも・・・

 そんな、思いを馳せる人の姿に思いを馳せて、かってにロマンチックな気分になってしまって、あ〜

 想像されるのは、ひたむきに何かに取り組む姿。
 そういう姿には惹かれちゃいますね。
 がんばってる人はかっこいいんですよね。

 他人に「がんばれ」って声をかけると、何かプレッシャーをかけてるような気もしてしまうけど、自分が「がんばる」のは、そんな気兼ね無しに思う存分がんばれる。

 だから。
 がんばって、かっこいい人になろうじゃないですか。

自力本願ということ

 仏教で言えば、お題目を唱えたりすること。
 キリスト教などの一神教で言えば、神様にお願いすること。

 これらはいずれも他力本願。

 神様にお祈りするだけなら、他力本願とは言えないかも。でもお願いは、間違いなく他力本願でしょう。

 とにかく、自分以外の存在に頼ることが、他力本願と考えると分かりやすいでしょう。

 自分が窮地に陥ったとき、助けを求める見えない存在がいたら、どれほど心が安らぐことでしょう。
 その一時の安らぎが、窮地から脱する術を思いつくきっかけとなるかもしれません。他力本願の実利を考察すれば、こんな考えも出来る、という一例で、それがすべてではありませんけど。

 もっとも、宗教の大原則は「信じること」。神様などを信じて行動することが、あなたを窮地から救いもするし、命を落としたとしても天国・極楽に召されるわけです。

 ところが、我が曹洞宗は自力本願とも言える教えを説きます。
 誰に頼るわけでもなく(助けは必要ですけど、求めはしない)、仏の教えのみを信じて行動するわけです。

 (書いてみて気付いたんですけど、言葉にすると他力本願との違いは微妙ですね(笑))

 たとえば、窮地に陥ったときは、神様仏様に助けてくださいとお願いするわけではなく、それまでに身に付けた仏の教えに則って行動するのです。

 信じるものは、今までの自分の修行と、それの基となる仏の教え。つまりは結局、仏の教えのみを信じる。
 神様がきっと助けてくれる、と信じるわけではなく、仏の教えに従っていれば必ず助かると信じるわけでもなく。仏の教えのみを信じて行動し、結果が第一ではない。

 つまり、窮地に陥ろうと陥らまいと、することに何ら変わりはないと言うことですね。

 仏教は、窮地を脱することを目的としているわけではなく、平穏に生き抜くことを目的としているわけでもない。
 仏教は目的でも手段でもない。ただ平穏な心を求める人への、確かな道しるべ。

 そんなわけで。
 曹洞宗のウリである坐禅、坐禅すると、落ち着きますよ。
 坐禅をするのは自分ですから、まさに自力本願。

 独りよがりでは困るけれど、他人任せも困りもの。
 自分の人生ですもの。自分の力で生きていきましょう。

 ちなみに、曹洞宗の僧侶が仏様に合唱礼拝するのは、何かをお願いしているわけではなく、仏の教えに感謝している姿なのですよ。体の良い言い訳のようにも聞こえますが、この違いはとても重要なんです。じゃないと、曹洞宗自体が成立しませんからね。

親は子の鏡

 私の父親は、車の運転がゆっくりです。
 ゆっくり、というか、ゆったり、というか。

 スピードは控えめで、安全運転が基本です。

 安全運転とは、ゆっくり走るだけでなく、あらゆる局面を想定して、最大限の注意を払う、ということですね。他人を守り、同乗者を守り、そして、自分も守る。

 それが分かったのは、自分で免許を取って何年かしてからですけれど。

 私も基本は安全運転です。まあ、若いからそれなりに、というときもありますが。

 無謀な運転を見かけるときがあります。
 でも、私はそんなこと、出来ません。

 無意識のうちにブレーキがかかります。
 「鉄のかたまりを運転する以上、安全に運転するべきだ。」

 それが脳内に植え付けられているのは、父の影響に他ならないでしょう。

 父がブンブン飛ばして走るような人であったら、私もきっと、それが普通だと思ったことでしょう。

 たとえ、教習所で安全運転を学んだとしても。


 親は子の鏡。
 子は、親の背中を見て育つ。

 私はまだ結婚もしていないから、大きなことは言えません。
 でも、これだけは言っておきたい。

 世の中のお父さん、もちろんお母さんも。
 子どもはいつも自分を見ているということを、ちゃんと分かっていますか?
 あなたの背中は、子どもに堂々と見せられる背中ですか?

 親は子の鏡。
 そして、


 子は親の鏡。


 自信を持ってみせられる背中に、しましょうね。

組織

 何かしらの組織が、活き活きと発展していくのは、組織が形成されてからの、ほんの短いひとときだけなのかもしれないと、ぼけーっと考えました。


 新しく組織を立ち上げたときや、既存の組織に大手術を加えたとき。

 そういった時は、自分の利害にとらわれることなく、組織の発展のために邁進する人物が登場します。


 彼らが第一線を退くと、急成長した組織を、緩やかな発展軌道に乗せるために、創造者よりは力は劣るものの、安定感のある人物が登場します。


 そして、組織が順調な発展軌道に乗り、第2世代の彼らが退くと、今度は、自分の利害を第一に(もしくは優先順位の高いところに)考える人物が、「多数」登場します。


 結果、彼らが組織を衰退させ、再び新しい組織や、改革が起こります。



 日本の過去の歴史を大雑把にかいつまんで、自分の都合に合うように捉えると、だいたいこんな流れの繰り返しに思えてきます。


 人間を初めとする、すべてのものに「生」と「死」(「始」と「終」)があるように、組織にも「生」と「死」があるのが当然なのかもしれません。


 また、そう考えると、人間に「生」と「死」があるのは、人間を衰退させることなく、絶えず前に進ませるための、巧妙な仕掛けのようにも思えてきます。



 こんなとき、ふと思うんです。


 「誰かの手のひらの上で、ころがされている」


 それがお釈迦様の手のひらの上なら納得も出来るけど、それ以外の何者かだとしたら・・・




 お顔を拝見したいものですね。

優しさ

 宝くじを買ってもなぜ当たらないのか。


 それは、この世に生まれてきたとこと自体が、とても運の良いことだから。

 私の場合はさらに運の良いことに、仏教という心から信じることの出来る教えに出会えたのですから、もう一生分の運を使い切ってしまったかもしれません。


 ところが悲しむべきことに、この「生を受ける」ということを、「生まれたくて生まれてきた訳じゃない」と否定する人がいます。


 私はまだ一度もお会いしたことはないですが、世の中にはそういう人がいるようです。


 たしかに、生まれる生まれないは、自分では選択のしようもないことかもしれません。何かしら楽しいことがあれば、生まれてきて良かったと思えるでしょうが、まだ何一つ楽しみを感じたことがない人もいるかもしれません。


 それでも


 あなたの意志とは関係なく、あなたの周りの人は、きっとあなたに会えて良かったと思っているでしょう。

 自分の生まれてきた意味を考えてしまうあなたのその繊細さは、他人への優しさとなっていることでしょう。


 生まれてきた意味は分からなくとも、「今」生きるべき理由には気付くことが出来るでしょう。


 「あなたに会えて良かった思っている、あなたの周りの人のために。」


 それを自分の喜びと感じられる人になってほしい。
 そうすれば、ほら。生まれてきて良かったと思えるでしょ?


 みんながそうやって、お互いに優しく出来たら。



 いつの日か、争いが過去のものになりますように。

価値観

 「価値観」


 人によって様々ですよね。
 物事は、それを見る角度によって全く違ったものとなる。よく言われることです。


 目の前に机がある。
 机の上に乗ったら、叱られた。


 そんな経験無いですか?


 子どもの頃の価値観というのは、大人のそれとは全く違います。観る角度、捉える角度が全然違います。

 子どもにとっての机は、大人にとっての机よりも、もっと幅広い用途に使えるものです。

 教室の机であれば、それはあたかも川の中の飛び石がごとく。


 あの頃は楽しかった。
 でも、なぜ楽しかったのでしょう。

 自由な想像力と、それを実現する行動力。年を重ねれば重ねるほど、失われていくもの。

 そのかわりに経験と知識を得ていくんですけどね。
 でもちょっともったいない気がしませんか?


 失われたと思われたその感覚、実はちゃあんと残っていたりするものです。
 日々の忙しさ、自分を惑わせる悩みのせいで気付きにくいところにしまわれているだけ。

 思い出してみましょうよ。みんながみんな、好き勝手に想像を膨らませて、ちょっとしたことで、ううん、何もなくても、ただ自分が生きているだけで楽しく遊べる感覚を。

 あの、楽しかった頃を。


制作・著作 宗教法人正太寺