コラム 2001年

懺悔

 車で走っていると、反対車線に、大きな側溝に片輪を落としてしまったトラックを発見しました。

 トラックの脇にしゃがみこみ、おそらく傷の程度を調べているのであろう運転手。

 それを見ながら通り過ぎる私。

 トラックには運送業者の名前がありましたから、運転手はプロということ。事故時の対応は心得ているでしょう。

 通り過ぎる車に見向きもしないのですから、必要な手配は済んでいると思われます。

 「すべては解決しているはず。あとはレッカー車を待つだけ、だろう」

 でも、やっぱり許せない。

 「大丈夫ですか?」というたったひとことの声かけをしなかった自分を。

 「困っている人に、ずくに手を差しのべられるように」

 それが、すべてを拘束された修行生活を嫌い、仲間よりも一足早くお山を下りた理由。それだけが、理由。ただそれだけをしたかった。

 それなのに、今の自分はどうだ。

 状況を見れば、たしかにもう解決に向かっている状態だと分かる。でも、本当にそうなのかは分からない。一言、

 「大丈夫ですか?」

 と声をかけるだけで、一切の状況判断なしに、その人の状態が分かるというもの。

 いったい何のためにお山を下りたのか。何のために禅師様のお膝元で修行出来る機会を捨て去ったのか。

 悔いる時間はない。挽回すべく、行動を起こすべし。

記憶

 国道23号線。助手席からぼーっと眺めていると、ふと、楽しかった思い出がよみがえってきました。
 当時好きだった子を、思い切ってデートに誘って出かけた水族館。その帰り道。

 「あの時は幸せだったなぁ。何もかもうまくいってて・・・」

 そんなことを考えるぐらいですから、今は幸せな出来事が起こらない日々を送っているんですが。。。

 初めて、かな。あまり感傷的な人間ではないので、何かをきっかけに昔のことがこんな形で思い出されるということがなかったのです。

 この世に生まれ落ちてもう26年ですから、感情なさすぎなような気もしますね。もしくは、そういう思い出が少ないのか・・・それは言うまい。

 「道路って、車が走るだけじゃないんだ。思い出ものせてるんだ。」

 珍しく、安っぽいドラマにも出てこないような言葉が頭に浮かびました。たまにはこんなのも良いものです。ちょっとセンチメンタルな気分に浸って・・・

 これで隣にいるのが彼女だったらなぁ。

 残念ながら団体行動で、運転手は、「友達だよ」と言った張本人。うーん。流れはこちらに向いてはいないようです。

 あ〜あ

運動会

 甥っ子の通う幼稚園の運動会へ、ビデオ撮影を頼まれて出かけました。甥っ子の出場種目は2種目。年少さんのためか、プログラムの前半でその2種目ともが終了します。

 ビデオ撮影はなんとかなんとかこんなもの、という結果で、頼まれた側としては役割は果たせたかなという具合。この時点で運動会終了まで1時間半ほど残っていたのですが先に帰るわけにもいかず、ぼけーっと眺めていました。

 父親、母親とともにダンスをしたり、かけっこをしたり、最後には年長さん総出場のリレーもあり、なかなか楽しめました。

 なかでもダンスは、みんな楽しそうで、一緒に踊っているお父さんお母さんも幸せそう。見ているこちらも、なんだか幸せな心持ちになってきます。

 みんなみんないい笑顔。やっぱり子どもは笑顔が一番だし、それを見た親や周りの人間も、自然と笑顔になる。幸せになる。子どもの笑顔を守るのが、一番大切なことかなぁ、と思ったりしました。

 今朝、目が覚めると、友人から一通のメールが来ていました。「始まっちゃったね。・・・空爆開始」
 TVをつけると案の定、空爆騒ぎ一色です。

 そんななかでの幸せの光景。

 今この瞬間にも、満足な食べ物もなく、亡くなっていく子どもたちがいる。でも、目の前にはこの世の楽園かと思うような、みんなの笑顔。この星に生きるすべての人が、この幸せを手にするべきだ。

 子どもの笑顔と、それを見た大人の笑顔。そんなありふれた光景を、ほんとうにありふれた光景にするために。

 そのために自分に出来ることは?

 私に出来ることは、仏の教えに従い、それを広めること。一切の争いを戒める教えを含む仏教を広めること。ただそれだけ。でも、それが私の望みを叶える、一番の近道だと思っています。

お年忌

 お年忌。法事とか、年回忌とか言いますね。どれも表現の違いであって、どれもあっています。

 そんなことを言いたいわけではなくて。

 お年忌とは何か。それをちょっと考えてみましょう。

 普通、亡くなった日の100日後に、「百ヶ日」というお年忌をします。年単位ではないのですが、慣習的にお年忌に含まれるようです。

 その後は、一年後に一周忌。2年後に3回忌。2年後なのに3回忌というのは、命日が3回目、というわけですね。その後は、7回忌、13回忌、17回忌と、3と7のつく年回忌が続きます。47回忌のあと、50回忌があり、その後は100回忌となります。

 でも、50回忌、100回忌というのは聞いたことがありませんね。だいたい33回忌を終えると、その後はやらないことが多いです。孫、ひ孫の代になってしまいますから。

 もちろん、我が曹洞宗の大本山である永平寺を開かれた道元禅師様などの、とってもすごかった人については何百回忌でも行います。来年は道元禅師様の750回忌だったりします。

 それはともかく。

 お年忌って、なんのためにやるのでしょう。疑問に思ったことはありませんか?

 一般的に言われているのが「先祖供養のため」というものですね。自分たちが生まれるご縁を与えてくださったご先祖様を、敬い、供養する。そんなところでしょうか。

 供養するというのは、お供え物をして、ご加護を願い、冥福を祈る、と言うことのようです。

 でも、仏教は祈りの宗教ではなくて、仏への道を歩む宗教です。みんな仏様になれる資質を持っている。だからみんな、仏様となるべく、修行をしていきましょう。そう呼びかける宗教です。(宗派によって違うところもありますけど・・・)

 その仏教が「冥福を祈る」というのは、違和感がありませんか?

 さて。では、お年忌とは何なのでしょうか。

 わかりやすく表現すれば、「きっかけ」であるといえるでしょう。菩提寺のご住職にお会いするきっかけ、法話を賜るきっかけ、お経を読むきっかけ。(正太寺では、お年忌の時にはみなさんにお経本を持っていただいて、いっしょにお経をお唱えします)

 菩提寺のご住職にお会いして、直接お話をする機会がもてるということは、菩提寺とのつながりを強化する上でとても重要なことです。つながりが強まれば、気軽に相談事もできますし、仏法に触れる機械も増えます。とても良いことです。

 法話を聞くことはとても良いことです。法話は、いろいろなことについて考えるきっかけを与えてくれます。仏に至る道を歩む仏教徒にとって、それはとても刺激となり、次の一歩の活力となるでしょう。

 お経を読むことはとても良いことです。現代語ではありませんが、日本語で書かれたお経もあります。訳の分からないお経でも、実際に漢字で書かれたお経本を見ると、何となく意味が分かるところもあります。

 曹洞宗で一番用いられるお経に「修証義(しゅしょうぎ)」というお経があります。この冒頭に「生を明(あき)らめ死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり」とあります。

 「生と死をはっきりとさせることは、仏教徒にとって一番大事なことですよ。」ということです。私はこの一文を読むたびに、「生とは何だろう、死とは何だろう」と自問自答します。

 この話を聞いた人のうち何人かは、次にこの文を目にした時に、私と同じように自問自答することでしょう。

 そうやって考えるきっかけを与えてくれる。様々なきっかけを与えてくれる。

 そしてこれは、亡くなられた方が現世に生きる我々に与えてくれた、大事なご縁でもあります。

 その功徳に感謝しながら、そのきっかけを大事に自分のものにする。それがお年忌です。ご先祖様のご冥福をお祈りする。それももちろん大切なことです。でもそれと同時に、こうした様々なきっかけを与えてくださったご縁を大切にしましょう。

 お経は長くて退屈で、足もしびれる。でもそう言わずに、その中にあるきっかけを探してみてください。きっと、有意義な時間になるはずですから。

原因は?

 アメリカ、ニューヨーク州、およびワシントン州でのテロ事件。報道番組で航空機が激突する瞬間や、犠牲者の遺族や行方不明者へのインタビューをみるたびに、強い憤りを覚えます。

 「報復しなければ」とうてい僧侶とは思えない考えが、頭の中に浮かびます。

 でも、ちょっと待って。

 以前「ひとりごと」でも取り上げたように、何事にも原因があり、結果がある。そう、だから、今回のテロだって、何かしらの原因があるはずなのです。

 その原因を詳細に調査せずに、安易に報復行動に出るのは、知性ある人間としていかがなものか。

 テロは犯罪です。殺人事件であれば、犯人の特定はもちろん、殺人に至った経緯を究明します。それと同じことが果たして為されるのでしょうか。

 現在、アメリカの国家機関が総力を挙げて犯人特定を急いでいます。でもその先、原因の究明はするのでしょうか。テロリズムにそんな捜査は必要ないのでしょうか?

 テロは、追いつめられた人たちにとって、唯一、強者に立ち向かう手段だと考えられます。そのテロが、昔から幾度となく繰り返されてきました。それはつまり、この地球上に追いつめられた人がいるということです。

 その彼らと平和的な決着をつけない限り、テロは終わりを告げません。今現在、今回のテロの首謀者として名前が挙がっているウサマ・ビン・ラディン氏を打倒したところで、第2の「ウサマ・ビン・ラディン」が現れないと、どうして言えるでしょうか。

 報復は、さらなる報復を呼ぶことでしょう。悪夢の連鎖がおころうとしています。今のアメリカに自制を求めるのは無理かもしれません。それならば、止めてあげるべきでしょう。日本国民の代表として、首相にはそうした行動を望みたいのですが・・・

自殺

 IT不況がやってきました。関連各社は続々とリストラ案を公表しています。再びリストラブームがやってきたようです。

 リストラが増えると心配されるのが、自殺者の増加。退職を迫られたり、左遷されたり。悩み苦しんだ末に、自ら命を絶つ道を選ぶ。そうした人が増えることが予想されます。

 時々お檀家さんにお話しするのですが、仏教の戒律に「不殺生戒」というものがあります。読んで字のごとく、生きているものを殺すことを戒めるものです。(絶対的な禁止ではなく、例えば、動物を食用に殺す行為については、「必要最低限にしよう」と戒めています)

 人間だけでなく、動物や植物、そのほかあらゆるものに対してこの戒律が適用されるのですが、それは自分以外の存在に対してだけでなく、自分に対しても適用されます。つまり、自殺に対する戒めです。

 自分が自殺すれば必ず誰かが悲しみます。「そんな人はいない」と思う人もいるかもしれません。でも、必ず悲しむ人がいるのです。

 誰かを悲しませることは、してはなりません。だから、自殺をしてはいけません。

 自分が自殺をすれば、必ず誰かが苦しみます。「なぜ私は、あの人の苦しみに気づいてあげられなかったのだろう」その人は、生涯その苦しみを背負い続けるでしょう。

 誰かを苦しませることは、してはなりません。だから、自殺をしてはいけません。

 あなたの周りに、何か悩みを抱えている人はいませんか?面と向かって聞いてみる必要はありません。でも、誰かが苦しんでいないか、いつも気にしていてあげてください。ちょっとした優しさで、救われる人がこの世には大勢いるのです。

 あなたがもし会社の人事担当でしたら、遠回しに退職に追い込むようなことを決してしないでください。それが原因で自殺をする人が必ずいるのですから。

 また、上司からそのように命令されたら、断固拒否してください。

 その結果、あなた自身が退職に追い込まれることになるかもしれません。その時は、そんな会社とはさっさとおさらばしてしまいましょう。もし可能なら、ほかの社員にも真実を告げて、みんなで辞めてしまいましょう。

 不景気のどん底の日本で、いかなる理由があるにせよ、自ら職を失うことは、相当な覚悟が必要です。でも、会社が生き残るために誰かを犠牲にする、そんなことを許容できるとしたら、あなたも十分、会社と同罪です。

 もちろん、会社側が正規の手続きに乗っ取って解雇をし、契約通りの保証をするのであれば話は別ですが。「解雇」という形を嫌って「自主退職」という形に無理に追い込む行為は許されません。

 最後に。

 自殺をしてはいけません。でも、自殺した人を責める必要はありません。問題となるのは「自分自身」なのですから。

風が吹けば桶屋が儲かる

 猫がもう寝てるよ。現在21:19。早すぎだよ。

 失礼。話がそれました。
 始まってないから、それてもないか。

 シロアリさんが出現して大わらわな正太寺ですが、寺務所に出た後、本堂にも進出していることが発覚して、さあ大変です。畳が何枚かやられたため、本堂の畳は歯抜け状態。

 8月に入ると大きな法要もありますので、畳屋さんと大工さん、ともに急ピッチで作業をしてくれてます。ありがたいことです。(大工さん、発見翌日には作業終了。早業でした)

 さて、お盆です。7月にお盆をする地域も多いですが、でもやっぱり、お盆は8月(主観)。甲子園もありますし。「8月」と聞くと、「真夏」という言葉が連想されますね。

 真夏。夏好きの私にはたまらない季節です。

 夏好きといっても、海に行くわけでもなく、山に行くわけでもなく。寒いよりは活動しやすいから夏好きなのですが。そもそも浜名湖に面した山にお寺があるので、わざわざ出かけなくても海にも山にも行って(住んで)たりして。

 ここ何年か、ジェットスキーがはやってますが、ジェットスキーは嫌いです。やかましいから。

 遊びを楽しむのは自由です。でも、それによって苦痛を感じる人がいることを、念頭に置いて楽しみましょう。それが、遊ぶときのルールです。

 何事にも原因があり、結果がある。仏教ではこれを「縁起(エンギ・縁によって起こる)」といいますが、自分の成功には様々な縁が関わっているのだから、自分1人の力と思わずに周りの人にも感謝しましょうとか、自分の今これからする行動が、未来の自分を作る元になるのだから、未来を見据えて行動しましょうだとか、まあいろいろと言うわけです。

 それと同じで、自分が誰かに苦情を言われたら、必ず原因があるわけです。その苦情が的を得たものであるかどうかは今は問題にしませんが、とにかく、原因があるわけです。

 ジェットスキーに乗っていて、近隣住民から「やかましい!」と言われたら、そりゃ、乗っていた自分が悪い。わざわざ人の住んでいるところに来て、「やかましい」と訴えられるほどの音を発しているのですから。

 この辺は誰でも分かっていることでしょう。だったら、苦情を言われる原因を無くしましょう。苦情を言われて気分のいい人はいませんし、苦情を言って気分のいい人もいません(その時一時はスッキリするかもしれませんが)。

 だからといって、他人の顔色をうかがいながら行動しろ、と言ってるわけじゃないです。相手の気持ちを考えてみましょうよ、とお勧めしてるんです。

 うまくまとまったかな?

 実際のところ、ジェットスキーがあまりにやかましいから、なんとかこの気持ちを伝えたいだけだったりして。

 これからこの音が毎日続くと思うと、はあ・・・・

 あれ?猫が起きてる。ちょっと遊んでもらおうかな。

急接近

 小泉首相のメールマガジン、登録してみました。配信は木曜というのでまだ間があります。とりあえずはバックナンバーからチェックかな、と思いとおし読みしました。

 なかなか、これは。おもしろい。

 今までは東京まで行かないとなかなかお目にかかれなかった人たちの、少なくともテレビに映されている時よりも素顔に近い姿が、そこにあります。

 部数200万部近くを誇るこのメールマガジンを、情報操作の目的で使ったら恐ろしいことになるな、と思いつつ、とにかく、単なる読み物としておもしろいのがいいですね。編集長、がんばってるみたいです。

 同じくインターネット上の情報媒体であるWebサイトを管理する身としては、ちょっと嫉妬してみたりして。「正太寺てんぷる」が解説2年余で現在7355カウント。桁がいくつも違うんですよ。メルマガで宣伝してくれないかなぁ・・・

 おっと。ここは(一応)宗教サイトだった。政治とは関われないんだ。残念。

 本当は個人でむちゃくちゃなことを発言できるサイトを作りたいとは思うんですけどね、そしたら維持費は全部自分持ち。無料でHPを開設できるサービスもあるけれど、私のポリシーとして、宣伝とかは載せたくないっていうのもあるもんですからね。

 何書いてんだ。

 まあ、とにかく。
 このメールマガジンは、政治を身近に感じる手段としては今のところ最高の手段ではないでしょうか。政治家を、1人の個人として捉えることが出来ます。人間不思議なもので、1人の個人として捉えられると、興味を持ちやすいんですよ。

 その人に興味を持つと、今度はその人のしていることに興味が出てくる。つまり、政治に興味が出てくるって事です。

 ほのぼのが特徴のこのコーナーで政治の話題はあまり取り上げたくないんですけど、良い物は良い。

 だって、いきなり「らいおんはーとの小泉純一郎です」で始まるんですよ。クスッときました。一国の首相がそんなこと書いちゃうんですから。

 おもしろいです。勧めはしません。でも、おもしろいです。

ポーカーフェイス

 かわいがっていた猫が、行方しれずになりました。一週間が経ち、ご近所からの情報収集の結果、どうやらすでにこの世にはいない模様。

 6年前、彼との出会いは突然でした。

 夏の日の午後。お寺の倉庫から子猫の鳴き声が聞こえます。いつのまにか野良猫が住み着き、子どもを出産したようです。

 親猫一匹、子猫4匹、計5匹。数ヶ月前に飼い猫「タマ」を亡くしていた家族は、全部まとめて面倒見ようと、意欲満々でした。

 しかし、子猫のうち一匹が、どうも元気がありません。兄弟たちと比べても一回り体が小さい。心配していましたが、残念ながら短い命を閉じました。

 残ったのは、虎毛の親猫と、虎毛、茶色の虎毛、三毛の子猫3匹。それぞれ、「トラ」「コトラ」「チャトラ」「ミケ」と安直な名を付け、かわいがっていました。

 兄弟はみなすくすくと育っていきました。

 ある日、兄が居間に飛び込んできました。「子猫が食われた!」

 犯人は発情期の雄猫。雌猫は子どもがいると発情しません。自分の子孫を残すため、子猫を殺して、強引に雌猫を発情させるというわけです。

 自然界では当然のように行われていることなのですが、それでも、目の当たりにするとショックです。

 不幸中の幸いか、子猫たちが雄猫に襲われているのを発見したトラは、コトラを救出することに成功しました。また、そこへいいタイミングで兄が現れたため、雄猫も退散するしかなかったようです。

 チャトラとミケは絶命していましたが、コトラは無傷。

 我々は、コトラを守り通すべく、トラがコトラの元を離れるときは、家の中に入れて保護することにしました。

 トラは頭が良く、コトラがいつもいる場所にいないと、家の中に向かって帰ってきたことを告げます。我々はその声を聞くと、コトラを親元に帰します。猫と人間の協力のもと、不思議な子育てが続きました。

 そのうちに、トラの頭の良さが災い始め、トラは敷地内退去処分となってしまい、コトラだけがお寺に残ることになりました。

 野良同士の戦いに度々傷つき、病院に運ばれることもしばしば。「おまえは深追いしすぎるんだよ」などと会話を交わしながら、6年。 

 コトラがいるのが当たり前の生活でした。家族と同じです。その彼が、とうとうこの世を去ってしまったのです。

 悲しいです。でも、和尚はいつもポーカーフェイス。どんな時でも落ち着いて、冷静に物事を判断しているから、周囲から信頼される。だから、どんなに悲しくてもポーカーフェイス。

 素直に泣いた方が、親しみがわく?

 そうかもしれません。しかし、親しみはわいても、火急の時に信頼されるとは思えません。いつも冷静だからこそ、ここ一番で信頼される。一長一短ありますが、それが私の考えです。

 私はいつもポーカーフェイス。どんな時でもポーカーフェイス。今までも、そして、これからも。

初めてのボランティア

 私の初めてのボランティア。それは、ちょっと規模の大きなクリスマス会でした。
 いや、ホントの初めては、実は他のことなんですが、でもまあ、私の認識上はこれが初めて。

 とにかく、クリスマス会です。ハンディのある人もない人も、みんなで一緒に楽しい会を創ろうという趣旨でした。
 その名も、「みんなでつくるお楽しみ会」。朝から昼下がりまで、およそ5時間程度のビッグイベント?です。

 知的障害の子を持つ親の会と、地元の社会福祉協議会(社協)が共催したイベントなのですが、そんな話はおいといて。

 当日、こんなイベントに参加するのが初めての私は、とても緊張して会場に入りました。そして、現場を仕切る社協のボランティアコーディネーターさんに、「この子と一日、マンツーマンでいて」とだけ、指示されました。
 「この子」とは、知的障害を持つ女の子。

 健康の度合いに程度があるように、障害度合いにも程度があります。一口に知的障害と言っても、その種類は様々です。でも、その子がどんな障害を持っているのか、全く知らされませんでした。つまり、見た目で「女の子」ということが分かるだけで、後は情報ゼロです。

 この情報過多の時代に、まさか情報ゼロの場面に出くわすとは。世の中何が起こるか分かりません。

 と思ったのは後日談で、その時何もかもが初めてのワタクシは、そんなことに気がつくはずもなく、ただ「はーい、分かりましたー」と、脳天気に答えるだけでした。

 指示されたのは「一緒にいて欲しい」ということだけでしたから、つまりは一緒にイベントを楽しめばいいわけです。司会者やスタッフの指示に従いながら、レクリエーションやゲームをしていきます。もちろん、クリスマス的なイベントもあり。

 その間に気になるのは、やっぱり、相手の子が楽しんでくれているかどうか。相手は女の子。私といてつまらなかったと言われては、男が廃ります。そんなことがないように、人見知りする上に口べたなワタクシですが、話しかけたり手を取ったり。

 午後からの後半戦に突入する頃には、幾分親しくなれてきたようです。最初はなんだか警戒されているような感じでしたが、今は大丈夫。いや、私がそう思っているだけかもしれませんが。

 とにかく、何とか仲良くなれて、午後からは歌ったり踊ったり。ワタクシも存分に楽しみました。

 そして閉会。その子のお父さんが会場内まで迎えに現れました。簡単に挨拶を交わし、お礼の言葉を言われて、ちょっと照れます。それが目的ではなくても、でも、「どうもありがとう」と言われればうれしいわけで。はい。

 そのあと、2、3分そのお父さんとお話をしたわけですが、どうやらその女の子は、言葉を発することが出来なかったようです。そういえば、しゃべっているのを聞いた記憶がありません。こちらが何か話しかけても、言葉で返事は帰ってきませんでした。もっぱら、表情と動作が頼りです。

 でも、言葉が無くても、こちらが言っていることは確実に伝わっていたはずだし、その子が言わんとしたことも、たぶん、だいたい理解できていました。

 だから、ワタクシの中では無意識のうちに会話が成立していると捉えていたのでしょう。だって、違和感はなかったんですから。

 うん。だからお父さん。あの子はちゃんと「しゃべって」いましたよ!

 今も私がボランティア活動を続け、主に知的障害の子たちと関わっている理由は、すべてこの時の体験にあるような気がします。

 ボランティアコーディネーターさんのあの、「この子と一日、マンツーマンでいて」と言う一言。あれにもし、「この子、しゃべれないけど・・・」という前置きがついていたら、私はあの子に積極的に言葉をかけなかったでしょう。「話しかけても返事がないんじゃ・・・」先入観というのは、それほどに大きな影響を及ぼします。

 でも、その先入観がなかったから、私は積極的に話しかけられたし、言葉が無くても、会話が出来るということも学べました。とても貴重な体験を、どんぴしゃりのタイミングで経験できたことは、ただただ感謝の念です。

 それから今まで、いろいろなことをしてきました。いくつかのイベントにもスタッフとして関わりました。そのたびに、いろいろと悩むことがあるのですが、思い出すのはいつも、この日のことです。

 頭では理解していても、どうにも取り除けずにいた凝り固まった既成概念を、根底から崩してくれたあの日の出来事。たぶん、一生忘れない、すばらしい一日でした。

思い出

 今の時期、一年で一番好きかもしれません。黄緑色の葉が目に眩しい、自然の生命力を感じる季節。自分も元気になれるような、そんな季節です。

 私には散歩という趣味があります。

 散歩。その名のとおり、ホントに散歩をするだけです。好きなんですよ、ぼけーっとただ歩いてるのが。特に山や田舎の公園をうろつくのが好き。怪しい人に間違えられないかと、変な気を遣ったりもしますが・・・

 中学の時の担任の先生が、HRの時間に学校の近くの公園まで散歩に連れて行ってくれました。クラスのみんなも、教室の中にいるよりも外で遊んでる方が好きなようで、みんなで喜んで出かけた記憶があります。(記憶が正しければ、その先生が担当の国語の時間にも出かけたような・・・)

 とても優しい先生で、一緒に遊んでくれるんですよ。先生って、自分のクラスの生徒からも嫌われたりすることがありますが、あの先生を嫌ってたっていう人はいなかったんじゃないかなぁ。

 思えば、あの頃からかもしれません。訳もなくふらふらと散歩に出かけるようになったのは。まあ、ふつう散歩って、そういうものなんでしょうけど。若い人間の間では珍しいようですよ。

 一年365日の間で、散歩がもっとも楽しいのは、ここ1、2週間でしょう。みなさんもどうですか?休みだからといって家でごろごろせず、どこかに出かけたりせず。たまには家の周りをうろうろするのもいいもんですよー

 (でも都会じゃ出かけないと緑がないかな・・・)

コーヒー

 最近は紅茶よりもコーヒーを飲んでるんだよ
 あの娘の吸う煙草の口の中の残り香と
 にがいコーヒーとの相性がとてもいいから

 Mr.Childrenの「友とコーヒーと嘘と胃袋」という曲にある一節です。

 元々紅茶党のワタクシ、この詩のごとくに、最近コーヒーばかり飲んでいます。たばこを吸う彼女がいたという事実はないんですが、影響されやすいんです。

 思えば、紅茶党になったのも、ある小説に影響を受けたからでした。全部ヤン・ウェンリーのせい。知らない方、ごめんなさい。

 そんなふうに、私は外部から影響を受けやすい。愛用の携帯電話D291iで通話するとき、必ずフリップを開けるとか、Palmとか、VAIOとか。

 女の子がきれいな人にあこがれるように、男の子はかっこいい人にあこがれる分けなんですよ、やっぱ。かわいいもんでしょ。

 まあそういうわけで、最近はコーヒーばかり飲んでます。どんなコーヒーかっていうと、もらい物の粉のヤツ。カップにスプーン一杯入れて、お湯を注いでできあがり。紅茶よりもはるかに簡単(普段でもちゃんとティーポット使って蒸らしているため)。一日3杯ぐらいのペースで飲んでます。

 でもそのうち、また紅茶が良いとか言い出すんだろーな。

 好みは人それぞれ。だから、こういうヤツもいるんです。

 ところであなたは、紅茶派?コーヒー派?

若いね

 先週浜松で開催されたハイキング、というか遠足というか、とにかくそういったボランティアの打ち上げが、昨日行われた。
 その帰り、たまたま同じ湖西から参加していた高校生の男の子(高校生の男を、男の子と表現してしまうところに、自分の年齢を感じてしまう・・・)を車で送っていくことになった。

 ボランティアというのは、年齢も職業もバラバラで、そこが魅力の一つであるのだが、それでも9つも年下の高校生と話をする機会はあまりない。(年上の人と話をする機会は多いね。)

 帰りの車中、だいたい40分ほどであろうか。話していて思ったのはやはり、若い、ということか。ものの考え方や捉え方、別にバカにするわけでもなく、ただやはり、若い。

 こんな頃が自分にもあったのだろうと思うと、無性にその時に帰りたくなった。

 たぶんその頃、私はいろいろな感情を素直に受け入れていた。楽しいときは笑っていたし、悲しいときは泣いていた。

 今はどうだろう。楽しいときには笑うし、悲しいときにはなく。それは変わらない。でも、どんな時でも頭は回転している。常に、何かを考えている。頭を真っ白にして感情に浸る、ということは最近無くなってしまった。

 具体的にとても分かりやすい例を挙げれば、女の子にふられてとても悲しいとき、それでも仕事をするし、笑うし。あの頃はそんな余裕はなかったのに。

 成長した、と表現できるかもしれない。でも、ホントにそうなのかな。
 はっきりとはわからないけど、なんだかちょっとさみしい。

おにごっこ

 今日は隣町の新居町で「わくわくシアター」なるイベントに参加。
 いくつかのボランティアサークルが一つの屋内会場でいろいろな出し物をやったり、参加者と一緒に簡単な劇をやってみたり、という小学生ぐらいまでを対象としたみんなでお楽しみ系のイベントなのですが、私はボランティアサークル「星のたね」の一員として参加。

 今はやりのキャラクターの塗り絵をしてもらって、出来上がった物を割り箸に貼り付けて、それを使って「おおきなカブ」をみんなで上演。なかなか盛況でしたよ。子どもたちも楽しんでくれたみたいで。

 で、そこに来てくれた小学3年生と2年生(たぶん)の女の子4人組が、なぜかおにごっこをやろうとせがんできました。ちょうど参加者の入れ替え時で時間はあったのですが、そんな簡単に持ち場を離れるわけにもいかず。でも、お菓子をくれたりして、どうしても遊んでもらいたそう。

 うーむ。しょうがないので10分だけ、という約束で外へ。公園の中にいくつかの施設が集合している、という場所なので、一歩外へ出れば、もう公園なんです。早速おにごっこを開始。もちろんオニは私です。

 いや、しかし。懐かしい。何年ぶりだろう。ついつい本気で走り回ってしまいました。おかげで明日は筋肉痛かな・・・

 結局誰が一番楽しそうだったか、と言えば、私なのかなぁ。だって、楽しいんだもん。子どもと遊ぶのはもともと好きだし。

 そういえば今週は、浜松に行ってハンディのある子たちとハイキングに行ったりして、遊び回ってたなあ。小さな子を抱きかかえてぐるぐる回したり、肩車をしたり。うん。楽しかった。

 体を思いっきり動かして遊ぶのは、大人も子どもも楽しいもの。おにごっこだって、いいじゃない。

 あ、そうだ。市内全域を使ったおにごっこ、昔やりたかったな。なんとか実現できないかなぁ・・・

 ところで、ボランティアサークル「星のたね」ではただいま会員を募集中。高校生から20代ぐらいまでの比較的若い世代で構成された、何でも屋的ボランティアサークルです。自ら企画して小学生ぐらいまでを対象としたイベントやったりもしてます。

 でも会員が4人(男2、女2)に激減してしまいました。困ってます。誰か助けてー!ボランティアに興味のあるお友達がいたら紹介してくださいませ。もちろん、ご本人でも構いませーん。週一回程度19:00から新居町民センターでミーティングをしています。新居人でなくてもかまいません。私は湖西人ですし。

 興味のある方はmasanori@shotaiji.or.jp(当サイト管理人:穴水)までメールくださーい!ちなみに私が副会長してます。

友達

 お彼岸ですね。お中日ですね。でも、今回の話題には関係なし。
 友達。男友達、女友達。

 異性の友達って、存在すると思います?いや、もっとシビアに、成立すると思います?

 異性の友達って、いいものなんですよ。同姓の友達には見せられない自分を見せられたり。一緒にいると、また違う自分を発見できて。

 「異性の友達なんて、あり得ない。」

 そう主張する人がいたら、私はきっと、「もったいないことしてる」と思うでしょう。友達は、多い方がいい。友達の数だけ、喜びや悲しみがあり、そのぶん、自分が豊かになると思う。

 自分を成長させる栄養剤。異性の友達は、同姓の友達よりも、効果が高いかもしれない。

 もちろん、その時々によるだろうけど。

 私は、異性の友達を否定しない。肯定する、というほどではないかもしれないけど、でも、あっても良いと思っている。

 でもね

 「やっぱり、友達かな・・・」

 そう言われたら、つらいよ。俺だって。

ワカモノヨ

 悩むこと。それは若者の特権である。
 って、誰かが言ってた気がします。かなりあやふやな記憶ですが。まあ、でも。間違ってはないでしょう。

 社会に出ると、悩む暇もなく、次から次へとやることが押し寄せてきます。社会に出る前、すなわち高校生や大学生の間しか、時間を気にせずに悩むことは出来ません。

 だからやっぱり、悩むことは若者の特権でしょう。

 ・・・あのー、社会に出ても25歳ならまだワカモノですよね・・・?

 だからきっと、私はその特権を行使する資格があるはず!でも、時間が足りない・・
 時間が足りなければ作ればいい!仕事辞めれば時間なんていくらでも!

 でも、この仕事はやるとか辞めるとかの問題じゃないしなぁ。そもそも「仕事」とか「職業」などの分類分けに属さないものだし。

 ともかく。悩むことは悪い事じゃない。年がら年中悩んでいるのは困りものだが、たまには前に進む足を休めて、足下を見つめてみることも大切。

 悩むということは、真剣に考えるということ。きっとそれは、自分をより輝かせる原動力になるでしょう。

 そういうわけで、悩むことにします。とりあえず、えーと、欲しい物を買うためのお金の工面について・・・って、おい!

 (いいのかなあ、お寺のサイトなのにこんなオチで・・・)

車の窓から

 車の窓からでなくてもいいんです。電車の窓からでも。
 今日、車の窓から外の景色を眺めていると、自分の乗っている車の陰が映っているのが見えました。
 歩道の段差、垣根、塀。車の陰はそれらの形に合わせて、自由自在に形を変えていきます。

 人間がCGを使って表現しようとしたら、コンピューターに膨大な量の処理をさせなければなりませんが、陰はそれを当然のこととしてこなしてしまいます。

 すごいですよね。やっぱり、すごいですよね。

自己犠牲

 「自己犠牲」
 良い響きです。誰かのために、自らを犠牲にする。一般的に、良いこととされています。もちろん、仏教でも。
 でも、最近考えさせられることがありました。

 誰かのために自分を犠牲にする。でもその時、自分の信念までも放棄しなければならなかったとしたら。
 自らの信念により、自ら禁じている行為を、誰かのためにしなければならないとしたら。

 自己犠牲と信念と。はたしてどちらを取るべきか。

 自己犠牲を取ったとしよう。そうすると、「自己犠牲」という言葉を、禁を犯した言い訳にしてしまわないだろうか。
 信念を取ったとしよう。そうすると、自分のために他人を見捨てたということになりはしないだろうか。

 あなたならどうします?
 私は・・・

時の流れ

 新年あけましておめでとうございます。いよいよ21世紀がやってきました。
 21世紀がやってきたといっても、和暦にしてしまえば平成13年。昨年から1年経っただけです。でもまあ、そう言わずに・・・時の流れというものを実感するのに、世紀の変わり目というのはちょうどいいのです。

 私が子どもの頃、21世紀など、まだまだ遠い未来の話だと思っていました。このサイトを訪れてくださる方々の多くも、同じように感じていたことと思います。しかし、現実に21世紀はやってきました。時は確実に流れています。

 今この一瞬というものは、その一瞬しか存在しません。さっき自分がいたはずであるその時は、すでに過去のもの。二度と戻っては来ません。

 そうした考えのもと、「今現在が最も大切だ。だから今、やりたいことをやるんだ」という思想が蔓延しています。しかし、それはあまりにも短絡的な考え方です。今この一瞬は、過去の出来事に基づいています。自分が今ここに生きているのは、元はといえば両親が自分を生んでくれたから。それ以前に、両親が出会ったから。両親が生まれたから・・・。

 そこまでさかのぼらなくても、自分が今の職業に就いているのにも、何かしらの過去の原因・理由があるでしょう。他にも、今の自分を構成しているものは、過去に大きく依存しているはずです。

 過去があって、今があるのです。

 そして未来は、今を基に築かれます。過去があるから今があり、今があるから未来があるのです。

 確かに「今」はとても大切です。我々が生きることが出来るのは、「今」この一瞬しかないのですから。しかし「今」は、未来を築く要因でもあります。

 「今」が大切だから、やりたいことをやるのではなく、より良い「未来」のために、「今」を大切にするべきでしょう。

 ちょっとした視点の違い。でも、たったこれだけで、ずいぶん前向きに「今」というものを大切に感じることが出来ると思います。より良い未来のために、今をもっともっと大切にしていきましょう。


制作・著作 宗教法人正太寺