ことば

 ことば。それは人が創ったもの。そう。しょせん人が創ったもの。
 ことばというのは、それと他とを区別することで成り立っている。「赤」と表現したとき、そこには必ず「赤でないもの」が表現される。「赤でないもの」がなければ、「赤」はあり得ないからである。

 あなたが「人間」とか、「人」とか言うとき、頭のどこかで、「人間」と「人間以外のもの」とを区別してはいないだろうか?
 区別しているはずである。そうでなければ、「人間」を表現することは出来ないのだから。

 ことばは常に区別する。

 仏教は常に区別しない。自と他を区別しない。それゆえ、自分のためでもなく、人のためでもなく生きられる。他人は自分であり、自分は他人である。あの草も、この猫も。鳥も、太陽も。

 分からない? 当然である。区別なしには存在し得ない「ことば」で、区別のない世界は表現し得ない。

 「ことば」の限界。それゆえ、釈尊(お釈迦様)は、ことばによる表現にこだわらなかった。その結果、ある人には正しくとも、ある人には正しくない教えが存在しているのである。そして、膨大な量の教典が残された。

 釈尊の伝えようとした真理はただひとつ。しかし、何かを表現したその瞬間、その何か以外のものが常に存在してしまう「ことば」では、ただひとつの真理は表現し得ない。

 釈尊が滅しておよそ2500年、脈々と受け継がれるその教え。人間は未だに、真理を表現するすべを持たない。鉄のかたまりは空を飛び、ついに宇宙にまで到達したというのに。

 大事なことを、忘れている気がする。なにか、とても大事な。

制作・著作 宗教法人正太寺