コラム 2000年

世界の中心

 「世界はおれを中心に回っている」
 時々そう言い放つことがあります。
 もちろん、たぶんに誤解を生む表現なので、目上の人間に対していうことはないですが。

 べつに、傲慢なわけでも何でもなく、あえていうなら、自分に対する戒め、でしょうか。

 世の中はすべて、原因と結果の連鎖で成り立っています。

 車の運転中、よそ見をしたからぶつかった。
 人の悪口を言っていたら、自分の評判が悪くなった。
 等々

 もちろん、連鎖ですから、結果が新たな原因となります。

 車でぶつかってけがをして入院したら、看護婦さんと仲良くなった。

 ということもあり得るわけで、どんな原因も、どんな結果も、それがはたして良いことか悪いことかなどという、人間的な要素はありません。

 そんな難しいことはさておいて。

 自分が何かすることによって、新たに何かが起こる。そういう意味で、世界は自分を中心に回っている、というのです。
 もちろん、何もしなくても、どんどん新しいことは起こりますが。

 だからこそ。

 世界を自分で回すべく、行動を起こせ。
 そうやって、自分に言い聞かせるわけです。

 まあ、そんなこと、自分の心の中で思っておけばいいわけなんですが、人前でそういうと、いっそう効果的だったりするもんですからね。

リラックス〜

 お気に入りの音楽を聴いて
 リラックス、リラックス
 いろんな人とおしゃべりして
 リラックス、リラックス

 大好きな愛車を駆って
 リラックス、リラックス

 大きな空に包まれて
 リラックス、リラックス

 やることいっぱいあるけれど
 リラックス、リラックス

 肩の力を抜いて、今日もほえほえ
 リラックス、リラックス

人間観察

 「人間は弱い生き物だ」
 誰かが、すべてを悟ったように言っていた。ホントにそうなのかな?

 道行く人々を眺めていると、ふと思う。

 「この人たちみんな、弱いのかな」

 みんながみんな弱いのなら、じゃあ、みんなから「あいつは強い」っていわれる「あいつ」はなんなんだろう。

 「あいつ」だけは特別なのか? 「あいつ」も弱いのか?

 「あいつ」も弱い人間だけど、がんばって強くなってるのかな。

 「私」もがんばれば強くなれるのかな? だって、みんな弱いのに、がんばって強くなってるんでしょ?

 でも、どうやってがんばればいいんだろう。

 「強い」って、どういうことなんだろう。

 「弱い私」には、「強い私」が想像できない。「私」も「あいつ」みたいに強くなれるのかな。

 なれるのかな。

 なれるのかな。

 なれる、よね?

 ただ、前へ 前へ。

 休憩しながらね・・・・

 以前にも「ひとりごと」で書いたような気がしますが、私は空を見上げるのが好きです。
 それも、ただ見上げるのではなく、地面にねっころがって見るのがとても好きです。もう、好きと言うよりも、愛してるという感じに。

 久しぶりに今日、ねっころがりましたよ。

 某市文化センターにおいて、今日・明日とお寺関係のイベントがあるのですが、私は駐車場係にあたってるんです。

 駐車場係と言っても、来場者が全員来てしまえばやることもないわけで、中でなにやってるかなんてなんにも気にせずに、持ち場でボケーとしてましてた。

 で、ふとねころがったわけです。ねっころがると当然真正面に空がくるわけです。

 「あっ、久しぶり。おお、空がまぶしい」

 天気は晴れ時々曇り。そのときは曇っていたのですが、久しぶりに見上げた空はとてもまぶしく。

 瞬間、自分がとってもちっぽけに感じられます。また、抱え込んでる悩みや問題ごとも、ちっぽけなことに感じられます。

 実際、大したことじゃないんですよね。直面するとどうしようかと思いますが、一歩距離を置いて考えてみると、そんなに問題じゃない。生死に直結するような問題には、なかなかお目にかかりません。幸い、健康面で異常はありませんし。

 あっ、でも口内炎がしばらく治らない。うむむ。

 駐車場でねっころがってるわけですから、端から見たらかなり滑稽な情景だったかもしれませんが、いい気分転換になりました。

 あしたも駐車場係だし。またねっころがろうかなぁ

毒舌

 よく言われるんです。おまえは毒舌だって。
 自分ではおもしろいと思って言ったことが、毒舌ととらえられたり、つまんないと思われたり。
 まあ、ね。つまんないと思うのはいいでしょう。感性は人それぞれですから。

 で・も・ね。毒舌って言うのはどうかと。もちろん、自分でも「こりゃぁ毒舌だったな」と思うこともありますよ。
 しかしながら私といたしましては、その場の雰囲気を盛り上げようとがんばっている訳なんですよ。
 むくわれないなぁ・・・

 などと思っておりましたら、新発見。
 地元住民の方と話をしてると、私の発言を結構楽しんでくださる。

 つっこみがつっこみとして機能する楽しい瞬間。

 ここで私、一つ気がつきました。

 私の地元、入出は漁師町。村なんですけど、一応、漁師町。
 漁師町といえば口が悪い。とっても悪い。
 私の地元など、語尾が「ばかやろー」なんですから。

 どこかの町で、入出人同士で世間話をしていたら、周りの人にけんかをしていると勘違いされて仲裁に入られた、などという伝説もあるぐらいです。

 そう。そうなんです。そういう中では、特に漁師の家に生まれ育った人間にとっては、私の毒舌っぷりなど、お上品な言葉にしか聞こえないんです。

 そんな人間がちょっときついことを言ってみれば、なかなかおもしろいものなんです。

 そうなんですよ。だから、わたしは毒舌ではないんです。おわかり?諸君。
 って、これを伝えたいのはたぶんこのページを見ていない人たちばかり。
 残念。今度直に力説しよう。

秋ですね〜

 涼しくなりました。寒がりの私は、夜になると寒いぐらいに感じてます。
 寒くなってくると、夜景がきれいになります。なんでも、湿度の関係だそうで。湿度が低いと、遠くの景色がくっきり見えるようになるそうで。

 まだ秋ですが、正太寺から見える夜景はきれいです。眼下に浜名湖を臨みつつ、対岸の家々が光を放つ。

 お酒を飲みながら悲しいことを思い出せば、自然と涙がこぼれるくらい。

 この景色にはずいぶんと助けられました。つらいこと、悲しいこと。なにかあると、ぼーっと眺めていたものです。そうしていると、不思議なくらい勇気づけられて、次の一歩が踏み出せます。

 今のところ、私の最高の宝物。

 これからもきっと、最高の宝物。

 でもホントは、おんなのこに助けてもらいたかったりして。

お彼岸に思う

 昨日はお彼岸のお中日でした。でも、大雨だったためお参りに来る方は少なかったです。そのかわり、本日、日曜日ということもあって、朝からすごい人出です(当社比)。
 こういう様をみていると、日本人というのはほんとに不思議な民族だと思います。普段はお寺に大して関心もないのに要所要所でちゃんとお墓参りに見えられる。

 ホント不思議です。普段は仏教なんて年寄りのものだと思っている若い人たちも、家族と一緒にお墓参りに来て、ご先祖様に手を合わせていく。

 最近では、若い世代のほうが宗教に対する関心が高いというケースもあるようですね。オーム真理教(アレフに改称)などは、いい例ではないでしょうか。彼らの大半は、「若者」と呼ばれる世代の人間です。近年薄れかけていた宗教に対する関心が、高まってきていることは事実のようです(いい意味でも悪い意味でも)。

 なにかと悩みやストレスの多い世の中、われわれ僧侶にできることは山のようにあるはずですが、残念ながら、いまの我々にはそれに対して的確に対処する能力が欠けているようです。

 何かに救いを求めたいと思う人も多いはず。もちろん、そんなものを必要としない人もいるでしょうが、人間というのはやはり、弱い生き物です。そうした人々に対して教えを示すべき我々僧侶は今、世襲でしかその教えを維持できない状況にあります。これは、僧侶を目指す人が少ないのではなく、目指すだけの魅力がないと思われているからでしょう。

 小学校の卒業文集に、「将来の夢」というページがありました。「プロ野球選手」とか、「スチュワーデス」とか書いた、アレです。少し将来のことを考え始めた子どもたちに、「お坊さんになりたい?」と聞いたら、「いや」と言われるでしょうね。

 いつの日か、「プロ野球選手」「スチュワーデス」にならんで「お坊さん」という文字を見つけられる日が来るよう、僧侶というものを魅力的なものにしよう。

 そう思わずにはいられない、日曜の午後です。

ことば

 ことば。それは人が創ったもの。そう。しょせん人が創ったもの。
 ことばというのは、それと他とを区別することで成り立っている。「赤」と表現したとき、そこには必ず「赤でないもの」が表現される。「赤でないもの」がなければ、「赤」はあり得ないからである。

 あなたが「人間」とか、「人」とか言うとき、頭のどこかで、「人間」と「人間以外のもの」とを区別してはいないだろうか?
 区別しているはずである。そうでなければ、「人間」を表現することは出来ないのだから。

 ことばは常に区別する。

 仏教は常に区別しない。自と他を区別しない。それゆえ、自分のためでもなく、人のためでもなく生きられる。他人は自分であり、自分は他人である。あの草も、この猫も。鳥も、太陽も。

 分からない? 当然である。区別なしには存在し得ない「ことば」で、区別のない世界は表現し得ない。

 「ことば」の限界。それゆえ、釈尊(お釈迦様)は、ことばによる表現にこだわらなかった。その結果、ある人には正しくとも、ある人には正しくない教えが存在しているのである。そして、膨大な量の教典が残された。

 釈尊の伝えようとした真理はただひとつ。しかし、何かを表現したその瞬間、その何か以外のものが常に存在してしまう「ことば」では、ただひとつの真理は表現し得ない。

 釈尊が滅しておよそ2500年、脈々と受け継がれるその教え。人間は未だに、真理を表現するすべを持たない。鉄のかたまりは空を飛び、ついに宇宙にまで到達したというのに。

 大事なことを、忘れている気がする。なにか、とても大事な。

17才

 物まねが得意な友人Kが、自分がキレた時のことを話してた。彼曰く、
「全然記憶にないんですよ。」

 私はまだ、そんなふうにキレたことはない。どんなに怒りを覚えても、どんなに冷たい言葉を浴びせても、どこかに、先の展開を冷静に考えている自分がいた。

 私はまだ、キレるということを体験していないのだろうか?

 最近、17才が注目されている。キレやすく、すぐ人を傷け、殺める。
 でも、ちょっと待ってくれ。彼らは、自分のキレた時をちゃんと覚えている。それは、キレてはいないんじゃないか?

 私と同じ状態。どんなに我を忘れそうになっていても、どこかで次のことを考えている。冷静に。おそらく、普段とは比べものにならないほど冷静に。

 では、17才の彼らは、冷静に、人を殺めたのではなかろうか?

 もちろん、真実は本人にしか分からないし、私のような性格の人間は、特殊なのかもしれない。でも、人間はしょせん人間。だれもかれも、大差無いはずなのだ。

 Kは続けて言う。

「めちゃめちゃいかりながら、ダチョウ倶楽部の上島の真似してたらしいんですよね」

 人がキレたときは、その人の本質が垣間見えるのかもしれない。だったらきっと、キレた人は、他人を殺めたりしない。

使える使えない

 人を「使える人」と「使えない人」と区別するとき、ありますよね?
 でも、「使える使えない」というのは、あくまでも主観なんです。客観ではないのです。人を評価するときは、とことん客観的なものの見方をする必要があるでしょう。そうでなければ、自分の価値観が全てを決することになってしまいます。一個人の価値観でのみ人を評価するなど、あってはならないことです。

 「あいつは使えないヤツだ」などと、軽く口にするのは、「自分は客観的なものの見方の出来ない自分勝手な人間です」と言っているようなものです。お気をつけあそばせ。

無煙線香って・・・

 お盆ですね。お寺は、お盆になるととても忙しくなります。そう、ホームページの更新をしてる場合じゃないほどに。
 ではなぜ更新したのかって?どうしても書きたいネタがあったからですぅ。

 世の中には無煙線香というものがあるそうで。字の通り、煙が出ないんだそうです。
 ところで、線香ってなんでしょう。線香は、(仏教的には)その煙と香りでその場を清めるものです。線香を立てると、何となく雰囲気が変わるでしょう?それには、線香の出す煙と香りが大きく影響しているのです。

 つまり、煙のない線香なんて、線香に非ず。確かに、煙くないのはいいかもしれません。でも、それでは意味がないー、のです。たばこじゃないんですから、そこまで煙を嫌わなくてもいいんじゃないかと。

 で、もしも仏具屋さんなどで、この線香、煙が出ないんですよー、煙くないんですよー、おすすめですよー。と言われたら。
 仏具屋さんの本業は商売です。私の本業は僧侶です。あなたなら、どちらを信じます?

 さらにもしも。近所のお坊さんに同じように勧められたら。仏教がこの世にあらわれて2500年。いつ線香というものが登場したのか分かりませんが、線香出現以来変わらずに用いられてきたのには訳があるのです。その点を聞いてみてください。

 「今まで長い間(何百年単位?)煙の出る線香を使ってきたのに、その煙にはなんの意味もなかったのですか?」

あっ・・・・

 よく見たら、前回のひとりごとは大分前なんですね。やばっ。なんだか妙に忙しくて。しばらくはこの忙しさが続きそうです。
 今朝、テントウムシを見ました。前に書いたかたつむりも久しぶりでしたが、テントウムシも久しぶりです。2年ぶりぐらいでしょうか。いったいどんな生活してたらこんなふうになるんでしょうか。ここ数年、前しか見てなかったからなぁ・・・

 子供の頃、テントウムシの進行方向に、手を広げておいておくと、テントウムシがのぼってきたりしたんですが、今日やってみたら、無視されました。あれれ。手が大きくなったせいなのでしょうか。たわむれたいのに。

 こしょこしょして、くすぐったくて。

 昨日、映画「アイ・ラブ・ユー」を見ました。日本初のろう者女優主演作品だそうです。そんな触れ込みはともかく、いい映画でした。

 映画をちゃんと見たのは10年ぶりぐらいでしょうか。(といっても、映画館じゃないんですけどね。隣町の町民センター。)
 最後に見たのはドン松五郎の大冒険だったかな。

 なんにしても、いい映画でした。いわゆる、障害者についてもっとよく知ってもらおうというたぐいに大別される作品だと思うのですが、それを抜きにして、純粋に映画として楽しめました。ハリウッドのアクション映画よりも私好み。

 あらすじを書くという作業はどうも苦手な分野のようなのでストーリーについては一切触れません。ご近所で上映される機会があったら是非ご覧ください。(これは障害者福祉に関わるボランティア的な発言かなぁ)

 では、一個人として感想を。「気持ちよく泣けます」

信念

 「出来るか出来ないか ではなく やるかやらないか」
 私の信念です。

 何かしらの計画を実行しようとする時。
 綿密な調査は重要である。

 しかし、事前段階における調査の結果、計画の実現は不可能と判断されても、とりあえず一歩踏み出してみる。

 何かしらの計画を実行しようとする時。
 その成功・失敗に関わらず、自分自身が納得できるかどうかの別れ目は、そこにあると思う。

 私は、失敗が恐い。後悔することが恐い。だが、そのために一歩を踏み出せない人間ではありたくない。

 とりあえず、目の前に、ボランティアとして運営に関わる福祉事業(別名・夏のバカ騒ぎ)がある。
 自分の信念を貫くことが出来るか否か。今年も試してみようと思う。

 ちなみに昨年は・・・60点ぐらいかなぁ。(事業自体はかなりの高得点でしたが)

 注:やるかやられるか ではありません

かたつむり

 雨上がり。かたつむり発見。何年ぶりでしょ。かたつむり見るの。
 やばいですね。かたつむりにも気付かないような時間を過ごしていたなんて。もったいない。

 久しぶりに見るかたつむりは、角をつつけばみょいっとちぢまる、昔通りのかたつむりでした。でもちょっと農薬に強くなってるかも。

 かたつむりって、ぜったいなめくじに殻がついただけだと思う。真剣に。

 ・・・

 などと、現実世界に浸っていたら、仮想世界がどうのこうのという話が耳に。

 先日のバスジャック事件。あの少年は、インターネット上の掲示板において、自分の本性をさらしていたそうで。

 そんな関連の話題をテレビでやってました。その話題の中での識者が言うには。現実の世界ではいえないことでも、仮想世界であるインターネットの中では、気弱な人でも、何でも言えるんですって。

 根本的に間違ってますね。小耳に挟んだところでは、日本のインターネット人口は2000万人を突破したらしいです。ほんまかいなと思いますが。聞き間違いかな? 日本人の6人に1人はインターネットを使ってることになります。

 そう考えれば、インターネットも立派な現実世界です。もちろん、そんなことを言うまでもなく、電子上のやりとりであるというだけで、間違いなくインターネットは現実世界です。

 世の中まだまだ認識不足なのではないでしょうか。情報教育などというのであれば、まず、インターネットは現実世界の一部である、という大前提を教えなければなりません。

 ところで、それらを教えるのは誰なのか? ・・・学校の先生? ちがうでしょう。インターネットは極日常に存在するものになりつつあります。テレビに近づきつつあのです。

 テレビの使い方を学校の先生が教えるでしょうか・・・?

 また、インターネットはコミュニケーションの手段でもあります。掲示板もコミュニケーションの手段ですよね?

 コミュニケーションは、つまり人との関わり合いです。人との関わり方を、学校の先生がいちいち教えるでしょうか?少なくとも私の時はそんなことありませんでしたよ。
 子供は周りの大人を見て育ちます。大人が見本を見せるのがまず一番でしょう。

 ・・・

 せっかくほのぼのと切り出したのに、なんだかうだうだとしてしまいました。ああ、世の中なんでこんな事件ばかり続くのでしょうか。

 もっとほのぼのとした世の中にするために、我々僧侶に出来ることはたくさんあるはず。お釈迦様はほのぼのとした世の中が好きだったはずですから、その教えに従っていればきっと・・・。まだまだ精進が必要です。文章も中途半端だし。久しぶりに書いたら、たったこれだけに一時間近くかかりましたよぉ・・・

 (ちょっとは宗教色出ましたでしょうか。)

解析 なぜ「正太寺てんぷる」の更新は遅いのか

 管理者の行動パターン解析
・平日
最近は地元社協でいろいろとお手伝い。サラリーマンのような生活です。
仕事内容は情報技術系(それほど大げさでなし)なため、家に帰ってきてまでパソコンに向かう気力が起きません。
・土・日等
平日なんちゃってサラリーマンをやっているため、お寺の情報機器のメンテナンスは土日に集中します。
なぜかファイルサーバーが立ち上がっていたりと、規模不相応なシステムを運用中。
それだけならメンテはほとんどいらないのですが、DNSを自前で立ち上げたり、OSを入れ替えたり、ハードディスクを増強したり、それに伴いまたOSを更新したりと、ずいぶん無駄をしているため時間がどんどん無くなります。
もちろん、本職の法事等を師匠から任されれば、前日からそのことで頭はいっぱい。事後は緊張疲れで使い物にはなりません。
・たまの休日(お寺に休日はないです。たまに何にもない日があると、朝起きて、「ああ、今日休日だ」と思う程度)
たまの休日です。なにもしません。 <--をいをい。
 こうやって生活していると、ホームページの更新している時間なんか無かったりして。ただ、妙に気力の充実した日があったりすると更新する気がメラメラと。もしくは、もうなんにも考えたくない、というときは、指が勝手に動いてひとりごと書いたりしてます。
 しかぁーし、何を隠そうこの「正太寺てんぷる」は、正太寺の公式ページである。やっぱりまめに更新しなくちゃダメでしょ。と、書きながら改めて認識したりもして。めちゃめちゃ忙しく働きながらホームページもバンバン更新しているパワフルな方もこの世にはいっぱいいますし。負けてられませーん。

 でも、霊場記、全然進みません。長期にわたるパソコン歴のために視力がやられ、結果、集中力をそがれることが多々。でもでも(反復)、最近なんだか調子いいので、気合い入れて書きますよぉ。完結するまで待っててくださいませ。

 P.S. かぜ、まだ治ってません

エンドレス

 かぜ、ひきました。
 今月の第3週からです。忙しさにかまけてしっかり直さないためか、治ったと思ってもすぐに復活してきます。リベンジってやつですね。もう三回目。

 今回は、先週の土曜日にリベンジが開始されました。三ヶ日の某御寺院の某副住職さんの披露宴に出席している最中のこと。ふと気がつくと、のどが痛い。

 そのまま2次会に出席している最中のこと。ふときがつくと頭がボーっとしている。

 んでもって、3次会。言葉少なになってました。ああ、ちゃんとお祝いできていただろうか。

 日は変わり日曜日。都合により東京へ。去年あたりにお医者でもらった頓服薬を飲みながら。帰ってきて今度は食事に。事情によりキャンセルききません。またしても頓服薬を飲みながら。珍しくムリしてます。

 そして迎えた月曜日。体の弱い私は朝からダウン。夜までダウン。この日はツイてなかった、いろいろと。

 火曜日になって熱は多少引くものの薬は必須の状態。にもかかわらず、やることは目白押し。夜は何を血迷ったか名古屋へGo。

 ようやく本日です。薬がまだ必要です。ここでこうして文章を綴っていても、思考力が不足してます。構成をする気力もなし。久しぶりに脳味噌丸出しの文章です。<--普段と大差ないかも・・・

 とにもかくにも。風邪を引いたら、さっさと休養をとってテキパキ治してしまいましょう。リベンジ食らわないように。風邪は万病の元、といいますからね。<--おまえがさっさと治せ。

 だれか、私の風邪もらってください。そしたらきっと、すっきりなおるぅ。


和尚的プラス思考法 その1

 車を運転していてやたらと赤信号に引っかかったとき 青信号ですいすいと進んだら、この先でトラックにぶつけられるのかもしれない。赤信号のおかげでそのトラックに会わなくてすんだのかもしれない。赤信号に感謝感謝。
 でも、根本的解決にはなりません。

「運が悪いものは運が悪い。そのうちいいことあるさ。」

 と思えるようになればしめたもの。いい方向に物事をとらえていけば、状況は好転します。もし好転しなくても、信じて突き進むこと。そういう人は、見ていてかっこいいから。

 いいんじゃないんでしょうか? それで十分。

あーめーあーがーりー

 雨降りましたね(静岡県西部地方)
 雨上がりましたね(静岡県西部地方)

 雨が上がったので車で出かけてみました。

 出かけたと言っても、近くのお店に買い物に行っただけなんですが。

 それはともかく。

 車を止めて道路の端を見ると、緑色のものがにょきにょきと。草が生えてきてます。

 反対の端を見ると、やっぱり草が生えてきてます。

 つい先日までは枯れた草があったところに、今日は新しい芽が出てきてる。

 春ですね。ちょっと感動。

 いよいよ本格的に暖かくなっていくのでしょう。私は寒い季節よりも暑い季節がすきです。

 故に、冬から春に変わるのがとても楽しみ。

 はやく桜が咲かないものか。

 正太寺のある宇津山では、桜より早くツツジが咲きます。3月下旬頃が見頃。

 ちょうどそのころ桜も咲き始め、一年で一番、宇津山が美しくなります。

 何もないところですが、その分、自然が美しい。どんなもんだい。

 4月2日、花祭り。湖西市入出の一番奥です。道に迷えば着くところ。

 そんな不思議な正太寺。是非一度。

著作権

 友人(といっても、もう何年も会っていませんが)のホームページ「大阪シリカゲル」を久しぶりに、ほんとに久しぶりに(スマン)見に行ったら、フリーソフトウェアの著作権について、ちょっとやばいことになっていることを知りました。

 まずは著作権情報センター(CRIC)のここを読んでください。お怒りを感じたならば、こちら(LinuxJapan)やこちら(KondaraProject)へ。

 簡単に説明するならば、フリーソフトウェアというのは、無償で公開された、ある個人・団体の著作物です。その利用に際して、著作者は対価の支払いを強制しません(カンパを募ったりしているものはあります。)。また、著作権を保持しています。

 しかし、上記CRICホームページでは、以上のことが歪められて表記されています。それはないんじゃないか?というような表現ですね。最初と最後はあっているんですが、その結論に至る経過が無茶苦茶です。フリーソフトウェアに対し、悪意を持つ人物が書いているんじゃないかと思えます。

 個人のホームページで、ある情報について誤った解釈を載せている、というのであれば大した問題ではないのです。それはよくあることでしょうし。しかし、CRICはその筋では権威的な機関ですし、問題の箇所を書いた方も、その分野では権威ある方だということです。(私はよく知りませんので、あやふやな表現です。すいません)

 権威を持った機関が載せている情報というのは、ほかの場所で入手したものよりも信用される可能性が大幅に高まります。日本人はとかく権威というものに弱いと言われてますし。故に、これは大問題であるといえるでしょう。

 CRICのページにある解釈は誤解を招くのに十分なもの。早急に訂正していただきたいものです。

石油ファンヒーター

 世の中どんどん進化しているもので、最近の石油ファンヒーターは灯油の残量がおおよそ把握できるようになっています。
 私の使用しているファンヒーターでは、灯油の残量を3つのランプの点灯具合で表示するようになっていて、3つ全て点灯していれば満タンから3.5リットルの間、2つ点灯していれば3.5リットルから2リットルの間、1つしか点灯していなければ2リットル以下であることを教えてくれます。

 この油量モニター(私のファンヒーターでは上記の装置をこう表現しているので、以下ではこのように表記します。)があるおかげで、私のファンヒーターの利用形態が随分と変わりました。

 私は人に自慢できるほどの寒がりなので、寒いときはちゅうちょ無くファンヒーターの力を拝借していました。しかし、スイッチを入れる前に油量モニターを確認し、灯油の残りが少なくなっていることに気がつくと、本当に今、その力を必要とするほど寒いのかを考えるようになりました。なぜなら、灯油が無くなったら補充しなければならないからです。

 私はめんどくさがり屋の合理主義者です。今の寒さと、灯油を補充するという面倒な行為を比較し、中期的な視点からもっとも合理的な結論を出します。これにより、今まで寒いと感じたら無条件でファンヒーターに頼っていたものが、ある程度の寒さまでは耐えるようになりました。

 カンタンに表現すれば、ファンヒーターを利用する機会が減ったということです。それはつまり、灯油の消費量が減少したことを意味し、石油資源の節約をしていることになります。

 油量モニターがファンヒーターに搭載されることによって、めんどくさがり屋という私の短所的性格が、石油資源の節約に貢献することになったのです。これはすごいことです。人間の短所を、長所に変えてしまうのですから。これで私もエコロジストの仲間入り!

 ただし、欠点が一つ。油量モニターは灯油がたくさん入っているという保証もしてくれるため、その場合には今まで以上に短絡的にファンヒーターに火を灯すようになってしまったこと・・・プラスマイナス0か?


制作・著作 宗教法人正太寺