コラム 1999年


いつもそこにあるもの

 とある理由で、目覚まし時計の位置が変わりました。今まではテレビの上に置いてあったのですが、テーブルの上に移動しました。  この目覚まし時計、私の部屋にある唯一のアナログ時計で、時間を確認するときは常にこの時計を見ていました。
 時計の場所が変わったら、大変なことになりました。時間を確認するときに、まず、テレビの上に視線が動くのです。頭ではもうテレビの上ではなくて、テーブルの上に移動したとわかっていても、つい、視線がそこに行くのです。

 何回も同じことをやって目が疲れたので、時計は元のテレビの上に戻しました。そしたら、気分も落ち着いた・・・

 そこにあるものがない。これはすごく大変なことですね。今まで当然のようにそこにあったものがある日突然なくなる。目覚まし時計ぐらいならいいですけどね、、、怖いです。気をつけましょ。

ダブルブッキング

 ふとした油断からダブルブッキングしてしまいました。ダブルブッキングとは、同じ日同じ時間に、二つの予定を入れてしまうことです。ダブルブッキングが起こってしまった場合にどちらの予定を優先すべきかという問題は、大変難しいものです(問題の時間になって初めてダブルブッキングに気づいた場合は、もっと深刻ですが)。

 こういった事態を防ぐために、電子手帳を常時携帯し、常に予定を確認して行動しているのですが・・・

 ボランティアで参加しているあるイベントのスタッフミーティング中に、予定の確認をせずに、イベント当日の午後の部の担当者となりました。

 ところがそのイベント当日の午後というのは、ちょうど我が寺院の行持(いわゆるイベント)と重なっているのです。前述のイベントのスタッフを引き受けた時点で、この時間帯はお寺の行持があるということは認識しており、この時間にはイベントから抜け出します、と断っていたのですが、実際に担当を決める時点ですっかり忘れてました。

 さあ、こうした場合、どちらを優先するべきか。言うまでもなく、お寺の行持は私の本業。無条件で優先する義務があります。(僧侶という立場を職業として捉えるた場合。本来であれば、本業、副業などと言う区別はないのですが、主旨からはずれるので追求しません)

 しかし、イベントのスタッフとしての責任も相当なものがあります。今回の場合、担当者には、与えられた時間帯の企画・運営に関して、ほぼすべての権限が与えられています。権利と責任が比例するのは当然のこと。担当者は複数人いるとはいえ、一度引き受けた以上、当日の運営に関わらないわけにはいきません。あきらかに他人に迷惑をかけるわけですし。

 また、ボランティアというのは、個人個人の自発的意志によって行われることであり、そういった考え方が基本であり、すべてであると私は捉えています。ボランティアのイベントスタッフというのも、会社のように雇用契約というものは存在せず、自発的意志によって人が集まり、対等の立場で共同作業をしていきます。ボランティアとボランティアをつないでいるものとは、信頼関係以外の何者でもありません。

 そういった状況では、信頼を損なうというのは致命的です。こうして考えるてみると、イベントスタッフとしての仕事も、優先したいと考えるに十分な理由があります。

 ではどうするか。いろいろ考えた末、キャンセルした場合、誰に迷惑をかけるかということに考察の焦点を絞ることにしました。

お寺の行持をキャンセルした場合
私の役割は主に、その場にいて住職と共に読経すること。行持の進行は住職によって行われる。
つまり、私がいなくても行持の進行自体に影響はない。
誰に迷惑をかけるかと言えば、住職以外に思い当たらない。
ただし、事前の準備等には、人手が足りない、という影響を与える。
これは、住職以外にも適用される。
が、このことは事前に了解済みである。
イベント当日、自分の担当時間帯に抜け出した場合
現段階では、私の役割はそれほど重要ではなく、代理も容易である。
しかし、これはほかのボランティアスタッフの負担を増加させることに他ならない。     
 まとめてみましょう。1の場合、迷惑をかけるのは住職です。私の場合、住職は父です。つまり、血縁関係にあります。では2の場合はどうでしょう。迷惑をかけるのは、他のボランティアスタッフ。もちろん血縁関係はありません。あるのは信頼関係のみ。

 以上のような考察の結果、私はイベントスタッフしての責務を優先することにしました。お寺の行持については、平謝りです。私のことを孫のように思ってくださっているお檀家のおばあちゃんたちには申し訳ないのですが・・・(わたしの衣姿を喜んでくださるんです。ありがたいことです。)

 さて、私の場合は血縁関係は崩壊しにくいという特徴を信じて、崩れやすい信頼関係というものの保持・向上を図ることにしました。みなさんならどうしますか?私の出した結論は、いざというときの言い訳にもなる、なかなかいいものだと思うのですが。いかがでしょうか。

 ・・・夜、目が冴えて寝付けなかったとき、妙に思考が活発になりまして、そのときに考えていたことを眠り薬代わりにと書いてみました。こういう遊びもなかなか、おもしろい。

・・・

 先日、まだ20代前半の方のお葬式をしました。 数人の方が弔辞を述べられまして、親族の方々は泣き崩れていました。
 なぜ・・・?なぜ人には死というものがあるのか。いや、あるにしても、なぜ、せめて、親より先に逝くなどということは・・・

 いくらなんでも。
 死はあらゆる生命に対して平等に訪れます。しかし、その順番はけして平等ではありません。

 あるものは両親を見送り、子供たちに見送られ、安らかに眠りにつく。
 しかし、本来自分が見送るべき両親に見送られることもある。
 誰に対しても死は突然訪れる。そう表現すれば、確かに死は平等でしょう。でも、悲しみは・・・

 やはり、若ければ若いほど。それから送るはずだった人生が長ければ長いほど。
 私は僧侶です。死についても、ある程度の宗教的解釈も持っていますし、時としてそれを人に諭しもします。でも、やはり、目の前にある死は、つらい。血がつながっていようがいまいが。多くの人がそうであるように。

 死があればこそ、今の生が、生きているというこの瞬間が、より輝く。誰かがこんなことを言っていました。
 たしかに、死があってこその生。我々が生きていく過程でも、多くの命が失われ、その命に支えられている。
 人は、死に対してあまりに無力です。それは回避できない、絶対的なもの。

 だからこそ、せめて、今ある自分の命に、それを支えるすべてのものに感謝したい。自分から命を捨てるようなことはあってはならない。
 今、強く思います。

過疎化

 多分、私の住んでいる地区は過疎化してます。若者はどんどん外に出ていっていますし、よくよく考えてみたら、新しく家を建てる場所もない。これでは人は増えない。

 人が増えなければ、最終的には人がいなくなると。それでは困ります。人を増やさないといけない。じゃなければ生活が成り立たない。そうでしょ?

 人口が少なければ商売は成り立たない。商店は次第に減っていく。そのうち、食料を調達するのにも、市の中心部に出ていかなければならなくなる。

 この地区の場合、そうした中心部まで車で20分ほどかかります。バスは一時間に一本。世界に誇る赤字路線です。いつ廃止になるか分かりません。

 ちなみに、病院は市の中心部にあります。自分では車の運転が出来ない状態になって、そのうえバスがなくなったら・・・タクシーでも呼ぶんでしょうか。どうしましょう。

 むかしはどうしてたのかなぁ。

 むかしは町医者もありました。近くにはそこしかないんですから、生活するには十分な収入もあったでしょう。商店だってそうです。長距離の移動が不便である以上、地元の商店というのは貴重な存在だったはずです。

 また、農作物や魚をもらったりあげたり。もちつもたれつ。おとなりさんとのいい関係。

 今でもありますよ。うちもいろいろいただきます。でも、だいたいは、そういう、今でいう古き良き時代に青春時代を送った方たちからいただくのがほとんどです。

 いい関係も若い世代では薄れてしまっている。商店は既に閉めてしまった店が大半を占める。若者は外へ出ていく。

 この先どうなるのでしょうか。その時がくれば、なるようになるのでしょうか。

 生活していかなければなりませんから、何かしらの解決策は見つかるでしょう。人間は頭がいいはずですから、もっと早い段階で対処策が施されるかもしれません。

 でも本当は、もう行動を起こさなければ行けない次期に来ているのではないでしょうか。こうした地域は山ほどあるはずです。実際に、対処策を練っている自治体もあります。でも、なにもしていないところがほとんどではないでしょうか。

 私は不安です。市の提示する活性化政策も真剣さを感じませんし(別に市政批判をする気はありませんが)。もちろん、市民にも危機感があまり感じられません(もちろん、既にそうしたことをふまえて活動してらっしゃる方もいると思います。あくまでも私の主観です)。

 マスコミは周期的に、思い出したように過疎化の問題を取り上げたりしますが、よそ事、という捉え方をすることがほとんどではないでしょうか。

 また、危機感を感じても、だからといって、どうしたらいいのか分からないのではないですか?

 私もそうです。将来に不安を感じても、どうしたらその不安を解消できるのか分からない。

 このページを読んでくださったみなさん、これも何かの縁です。一緒に対策を考えてみませんか?

 とりあえず、考えるぐらいはしておくべきだと思います。このままほうっておいても、街が活性化するとは思えませんもん。

 ご意見は、「ぐちぐち」まで。

開発環境

 「ぐちぐち」でデータベース開発の話が出たので、何となく自分の開発環境を紹介したくなりました。対抗して「ぐちぐち」投稿してくださると楽しいです。

 パソコン:
   SONY PCG−767
   バイオなノートです。今時Pentium266です。かなり遅め。
   でも無理しなければたいていのことは大丈夫。
 ディスプレイ:
   12.1TFT。なんとこのサイズでXGA表示。だからこそこの機種を買ったんで
   すけどね。
   最近でもエントリーモデルのノートはSVGAが標準ですが、ゼヒXGAにしても
   らいたいものです。使い勝手が全然違うし。
 HDD 4.3G、MEMORY 64+64MB:
   メモリーは増設しました。HDDはちょっと少な目。ワープロのほか、Delphiと
   VC++入れたら残り0.6Gですって。今はVC++他、日常的には使わない
   物を削って、かわりに最近ACCESS2000が入りました。残り1G。つらい。

 うーん、評価の対象になるデータはこんなもんでしょうか。DelphiとVC++が分からない方は、今日の分のひとりごとは無視しましょう。その方がきっと幸せです。
 その気になって説明しだしたら正太寺てんぷるの性格が変わってしまいます。

 長いパソコンライフの中で、このバイオはかなりのお気に入りに属するのですが、でも最近、省スペースデスクトップが気になって・・・

 あれって、ノートみたく、スタンバイモードとかあるんでしょうか。内蔵機器の動きもメモリーへの通電以外は完全にストップするんでしょうか。それだったら欲しいなぁ・・・お金はないけど。貯金しようかな。

 とりとめがないので、この辺でやめときます。

読書の秋です

 久しぶりのお気に入り書籍紹介ぃー。
 今回は少しお堅くいってみます。

 今回紹介するのは以下の3冊。かなりメジャーな本です。既に読んだ方も多いことでしょう。

 ・「超」整理法
 ・続「超」整理法・時間編 タイムマネジメントの新技法
  野口悠紀雄著、中央公論社

 書類整理の切り札として著者が提唱するのが、「超」整理法。なかなかすごいものです。必要な物は、角2封筒と、それを縦に収納できる本棚のような物。・・・説明面倒だ。知りたい方は本屋さんへGO。

 とりあえず、机の上はきれいになるようです。

 ただ、私はテーブルでいろいろな作業をすることが多いのです。テーブルですから、角2封筒を収納するスペースなんかナシ。根本的に、自分には合わなかったりして。

 でも、いつか本格的に書類に囲まれる生活が来たときのために、チェキチェキ。

 「超」整理法3では、この整理法における、書類を捨てる作業という部分にスポットを当てた解説がされています。

 いわく、「超」整理法を使えば、不要な書類を不要な書類と断定しやすい。しかし、それでも書類を捨てるというのは怖いもの。だから、とりあえず、捨てる。とりあえず捨てたことにして、それでも必要なかったらいよいよ捨てる、ということです。

 確かに、書類にせよなんにせよ、物を捨てるという行為は大変な勇気を伴います。捨てると必要になったりするんですよね、これが。しかし、捨てなければいずれ家中が物であふれかえってしまいます。

 まあ、私の元にやってくる書類は微々たる物ですのでなかなか家中が書類で埋まるということもないのですが、この「とりあえず捨てる技術」というのは、服とか本とか、もともと対象としていない物にも応用が利くというのがすばらしい。

 最後に、続「超」整理法。これ、一番のお気に入りです。簡単に言うと、スケジュールをうまく組んで仕事に十分な時間を確保する方法を紹介したノウハウ本です。

 なにがいいって、著者自らが言うように、ノウハウ本に徹しているところがいいです。時間を確保してなにをするか、ということには全く触れず、時間をうまく確保する方法のみを追求しているというのがいいです。なんだか、潔くて好きです、そういうの。

 本の中では、ダブルブッキングしない方法とか、組織内コミュニケーションの見直しとか、いろいろと広範囲に渡って時間を節約する方法を紹介しています。中には、他人の時間をもらう方法という、とっても気になる話題もあります。

 詳しくは実際に読んでいただくのが一番ですが、実はこれ、管理職クラスの方に読んでいただきたい本です。だって、ここで紹介されている方法の一部は、平社員ではどうにもならないことなのです。組織を挙げて取り組む問題にも触れています。

 私は組織に属していない人間ですから、あまりうまく言えませんが、やっぱり日本の組織の持つ特異性による弊害というのはあると思うんです。それについての指摘が多いものですから、読んでいると日本の会社が不安になったりします。だから、ゼヒご一読を。

一所懸命と一生懸命

 子供たちの夏休みも終盤を迎え、社会人たちの夏休みはとうの昔に終わり、世の中静かになってきました。

  年輩の方はご存知でしょうが、「一生懸命」は、「一所懸命」の誤った表記です。ところが、「一生懸命」の方がなんとなく意味がつかみやすいためか、現在ではこちらの方が一般的に使われています。

 というよりも、「一生懸命」が正しい表記だと疑わない人も多いことでしょう。広辞苑に「一生懸命」が載ったという噂も聞きましたし。

 でも、「一生懸命」って、すごく大変なことだと思いませんか?だって、「一生」「懸命」ですよ。生きている間中、ずっと。

 私はイヤです。やっぱり、手抜くときは抜きたいし。もちろん、やるときはトコトンやりますが。

 そういう意味でも、私は「一所懸命」が好みです。「ひとところ」に「懸命」なんですから、これならなんとかなりそうです。

 ちなみに、この「ひとところ」。ずいぶん曖昧な表現ですね。多分、この「ところ」には、「場所」などという限定した意味ではなく、「状況」とか、「その時」とか、いろいろな意味が含まれているのでしょうね。

 「一生」を「懸命」に生きることも必要でしょう。人生は厳しい。生きることは大変です。でも、抜くときは抜くというような、いい意味のメリハリをつけて生きる方が、わたし好みです。

 みなさんはどうですか?
 がんばり屋さんもいいですが、たまには息抜きしましょ!

 ついでに、ぐちぐちしてくれるとうれしいなぁ。正太寺もお盆行事を終えてからはや十日、そろそろ盆疲れもとれてきました。

 そして、一番静かになったのは、目の前の浜名湖を荒らし回っていた水上バイク。別にやるなとは言いませんが、漁業区域内であることや、海岸から十メートルも離れていないところに民家があるということを考慮していただきたいものです。

 なかにはマフラー無いんじゃないかと思うようなのもありますし。そのうち規制されるんじゃないかなぁ、この辺も。

 話がそれました。

 私も今は、少し遅めの夏休み、という感じで、のんびりしてます。いろいろ予定は入って来るんですが、お寺の仕事じゃないものばかりで。地元社協からのお手伝い要請だったり。

 残暑厳しい昨今、みなさんはいかがお過ごしですか?夏ばてなどしないよう、健康には十分注意してお過ごしください。

 というわけで、実は残暑お見舞いだったりします。

 では。

夏休み

 子供たちの夏休みも終盤を迎え、社会人たちの夏休みはとうの昔に終わり、世の中静かになってきました。

 わが正太寺もお盆行事を終えてからはや十日、そろそろ盆疲れもとれてきました。

 そして、一番静かになったのは、目の前の浜名湖を荒らし回っていた水上バイク。別にやるなとは言いませんが、漁業区域内であることや、海岸から十メートルも離れていないところに民家があるということを考慮していただきたいものです。

 なかにはマフラー無いんじゃないかと思うようなのもありますし。そのうち規制されるんじゃないかなぁ、この辺も。

 話がそれました。

 私も今は、少し遅めの夏休み、という感じで、のんびりしてます。いろいろ予定は入って来るんですが、お寺の仕事じゃないものばかりで。地元社協からのお手伝い要請だったり。

 残暑厳しい昨今、みなさんはいかがお過ごしですか?夏ばてなどしないよう、健康には十分注意してお過ごしください。

 というわけで、実は残暑お見舞いだったりします。

 では。


活動紹介

 7/24、25の2日間に、地元の社会福祉協議会主催で、知的障害の方たちを対象に、一泊二日のイベントを行いました。

 当日参加のボランティアの方たちと障害をもった方、それと、私のように実行委員として関わっているボランティアスタッフ、総勢110人ほどで、ウォークラリーやったりキャンプファイヤーやったりと、楽しい時を過ごしました。

 私は主にキャンプファイヤー担当だったんですが、トーチに火をつけるのが早すぎて消えそうになるなど、しょっぱなからハプニング続きで、今考えてもよく無事に終わったなというかんじです。

 で、何でこんなことを書いたかと言いますと、単純に自分がどんな活動をしているのかという紹介みたいなものですね。ホームページだけ見ていると、結構ナゾな人物かなと思ったりして、、、

 それと、(時間が無いせいもありますが、)一月近くも更新がないので、なんか書きたい、でもネタがない、と言うわけだったりもします。

 そういうわけで、私はそんな人です。では、また。

事実

 晴れ 時々 魚

 私の住む町では実際にあるのです。ほんとに。信じて。


制作・著作 宗教法人正太寺