コラム

副住職の想うところをコラムでお届けします。ご意見ご感想をどしどし送りつけてください。

しばらく更新が滞っておりますが、過去掲載分でお楽しみください。

コラム 2008年

お仏壇の前で読むお経は、ご先祖様に捧げているのではない

われわれ僧侶がお仏壇でお経を読むのは、ご先祖様にお経を読み聞かせているのではありません。ご先祖様は、生前出家された、もしくは葬儀の際に出家の儀式をして僧侶となられたかのどちらかであり、必ず仏様となっています。

仏様とはすなわちお釈迦様と同じ存在です。お経というのはお釈迦様の説かれた教えがまとめられたものですから、お仏壇の前で読むお経がご先祖様に読み聞かせているのだとしたら、まさに釈迦に説法。

ではなぜ読むかというと、それは、お経を読むことは修行であり、功徳があるからです。修行をし功徳を積み、その功徳をご先祖様に捧げることによって、ご供養申し上げるのです。

お釈迦様の誕生日(4月8日)をお祝いする降誕会(ごうたんえ)でもお経を読みます。この際も、お釈迦様にお経を説いているのではなく、お経を読むという修行をし、その功徳でお釈迦様をご供養しているのです。

ちなみに、僧侶がお経を読む時には、たいていお施主さんから、お布施をいただきます。最近ではほぼ例外なく、お布施はお金ですね。ですから、時には「お経料」と書かれたり、「御礼」と書かれたり、またそのように言われたりしますが、お布施はお布施であって、それこそお布施でなくてはならないのです。

お布施とは、修行の1つです。それもかなり重要な修行です。見返りを求めず、金品や、仏教の教えなどを与えることです。僧侶がお経を読む時にお布施をするのは、それが功徳となるからです。我々僧侶はお経を読み、その功徳でもってご先祖様をご供養する。お施主さんは、お布施をして功徳を積み、その功徳でもってご先祖様をご供養するのです。

全てはご供養するための修行なのです。

功徳を積む行いは多々あります。その基本は、正しい生活を送ること。仏法を守り、他人を傷つけず、誰にでも優しく接する。食物に感謝し、生きとし生けるものをいたわる。そうした生活をしていると、自然と功徳が積まれていきます。日々の生活が、尊い修行なのです。

自らの生活態度がすなわち、ご先祖様のご供養に繋がるのですから、そのつもりで毎日の生活を送っていただきたいと思います。我々が今、ここに、こうして存在していられるのは、すべてご先祖様がいたからこそ。いくら感謝しても、し過ぎることはありません。感謝の気持ちを込めて、しっかりとご供養いたしましょう。


コラム 2007年

悪いイメージも変化の糧に

K-MIXを聞いていたら、最近なにをしても悪い方向に行くイメージしか持てないので、アドバイスをというメールを読み上げていました。

どんなに精神的にタフな人でも、そういう時はあるものです。楽観主義者の私だって。

お節介とは思いますが、アドバイスをしてみたいと思います。こんなところでしてみても、ご本人の目に触れることもないでしょうけれど。

悪いイメージしか持てなくて困っている=なにもしないでいる、と理解しています。以下の文はそれを前提としています。

今の状況を変えたくないのであれば、何もしないままいればいいのです。難しく考えることはありません。今、なにもしないでいて、状況が変わらないのですから、それでいいじゃありませんか。

状況を変えたい、もしくは変わっていく流れがある、というのならば、いっそその悪いイメージの通りに行動してみましょう。悪いイメージが持てるのですから、今の状況はきっとそう悪くはない状況です。だから良いイメージが沸かないのでしょう。とても良いときは自然と沸いてきますよね。それ以外の時に良いイメージを沸かせられる時があるとしたら、悪い状況の時です。とことん悪い状況です。

だから、悪いイメージの通りにやってみるんです。何もしないでいるよりは、何かが変わっていくはずです。イメージできるのですから、対応策も考えられるはずです。思いつきもしない良いイメージを追い求めるより、はっきりと浮かぶ悪いイメージを、自分なりに乗り越えていく方が安全です。

乗り越える頃には、良いイメージがはっきりと見えていますよ。

一つ注意点を。

自分のそうした気持ちだけでは解決できない状況になっているのであれば、とにかくまず信頼できる友人に相談しましょう。例えば多重債務とか。良いイメージが浮かんだところで焼け石に水です。そういうときこそ、再スタートです。

コラム 2005年

いま出来ることをやるということ

縁起でもない話ですが、人はいつ死を迎えるか、分かりません。自分はもちろんのこと、他人もそうです。自分について覚悟するのみでなく、他人についても覚悟しなければなりません。私で言えば、さらにペットの猫の死もまた、覚悟しなければなりません。

人の時間は有限です。その有限の中で、いかに生きるか。いまの日本であれば、かなり大勢の人が何もしなくても、食べていけます。でもそれでいいのか。テレビに登場する、アスリートたちやアーティスト。いろんな競技の選手とか、芸術家とか音楽家とか歌手とかのことです。
彼らの目は、とにかく輝いて見えます。真剣なまなざしの中に、光り輝くものがあります。

それはなぜか。常に前を見て、目指すものがあって、いま、この瞬間も、そのために努力しているからだと、そう思います。
目の輝きは、ずっと先にある自分にとっての光り輝くものを追い求めている、その輝きだと思うんです。

時間の過ごし方は人それぞれ。どう過ごしても、同じように時間は流れていきます。
それなら私は、前を向いて、努力して過ごしたい。そう思っているだけでなく、ちゃんと実践したい。誰から見ても、そう見えるように、実践したい。大変かもしれないけれど。

もう平均寿命の半分近くに来たけれど、いつかその目の輝きを誰かに見つけてもらって、それによってその人に再びがんばる力を与えたい。そう思います。

男30歳。今それが、ちょっとした目標です。

物を大切にするということ

あなたは、物に顔が付いているのを想像したことがありますか?

機関車トーマスには顔がありますよね。そういったことを想像してみてください。物にだって、顔があり、そして、命があるのです。

もしあなたが誰かに叩かれたら、痛いという顔をしますよね。物も同じです。叩かれたり、乱暴に扱われたら、痛いという顔をします。物だって、痛がるんです。

みんなが痛いと思う時は、叩いた人に謝って欲しいでしょう。物だって同じです。もし、乱暴に扱ってしまったら、ちゃんと謝りましょう。

そうすることで、物にも命があることが、どんどん感じられるようになります。

自分の体も、また大切です。自分の手のひらに顔が付いているのを想像してみましょう。その手で何かを叩いたりしたら、痛いって顔をしますよ。叩かれた方にも顔があって、そっちも痛いって顔をしますよ。

だから、叩いた物にも謝って、自分の手にも謝りましょう。

物にも、手にも、他の所にも、いつも顔が付いているのを想像してください。みんなが優しく接すれば、きっと笑顔でいてくれます。でももし乱暴に接すれば、痛い、悲しいという顔をします。

そんな顔をさせないように、いつでも優しく接してあげましょうね。

コラム 2004年

迷信

お寺は迷信に接する機会が多いです。機会が多いというより、「それは迷信だ」という区別が付いてしまうというべきかもしれません。普通であれば迷信かどうかも考えもせずにいることを、仏の教えに照らし合わせてしまうから。

迷信だからと言って、それを簡単に否定するわけにもいかないのが難しいところです。和尚の発言力よりも、一族の長老の発言力の方が強い場合も往々にしてあります。どちらがより良いかはケースバイケースでしょうけれど。

結果があれば原因がある。なにごとにおいても。それはお釈迦様の教えの根本です。ですから、迷信が生まれたのにももちろん理由があり、そして現在に至るまでの歴史があるわけです。だから迷信と言っても、それが間違っているとか、そういう程度の問題ではないんですよね。

ただ、行き過ぎた部分があれば是正することも必要です。そのバランスは難しいですが。こうやって書いてても、具体例を挙げられずにいるくらいですから。

迷信よりも例を挙げやすい事象として、神道との混合がありますね。火葬場から帰ってきたら塩をもらいますよね。あれは、仏教徒の場合は必要ないんです。(表現が適切かどうか不安ですが)死を嫌う神道ではいろいろなところで清めというものが存在します。この塩もその一つだと思われます。神仏混合の時代があったため、仏式であっても塩が必要とされるんですよね。

でもね、これもまた難しいところがあります。私の地域では、仏教徒であっても神棚があります。みんな氏子なんです。そういう地域が日本のほとんどを占めるのではないでしょうか。これも神仏混合の時代があったから。原因はといえば、廃仏毀釈を逃れようとした仏教教団にあるんでしょうけれどね。

仏式で葬儀を行っても、氏子でもあるのですから塩で清めるのは不自然で無いとも言えるわけです。よその国の人には理解しづらい部分でしょうけれど、日本においてはむしろ自然かもしれません。





考え方の基本は、その考えがその人のためになっているかどうか、です。迷信だって信じれば真実です。それが好影響を及ぼすのであれば私はそれで良いと思います。塩で清めるのだって、それで気が落ち着くならば。

ただ、塩で清め忘れたためにそれをずっと不安に思うのであれば、そのときは「仏教を信じるあなたには、浄も不浄もないんだから、清める必要なんてないんですよ」と言ってあげたいです。

歴史の中でいろんなことがこねくり回されてとても複雑になっています。でも、求めることはとてもシンプルです。それを見失わないように、たくさんの人を導いていける和尚になりたいです。

人生経験

よく言われることですが。


よく言われることだと思うのですが。


・・・よく言われることだと、思うような気がする程度の、そんなことですが。


例えば和尚という、誰かにお説教をしたり、相談を持ちかけられたりするような肩書きを持つならば、様々な人生経験を積んだ方が良い、と。

アルバイトでもなんでも、いろんな仕事をしてみたり、夜遊びや賭け事、酒たばこなどの控えるべきことに精を出してみたり。

そうすれば、そういう立場の人の気持ちも分かるようになる、と。

「確かにそうだよな」

そう思ってきました。実際にそれをしてきたわけではないですけれど、きっとその方が良いんだろうなと、思ってきました。

でも、お風呂に入りながらふと思いました。

いろんな仕事をするのはともかく、夜遊びや賭け事などは、「それをしない経験」というのもあるんじゃないかな、と。

もちろん朝までカラオケで歌っていたこともありますし、賭け事は・・・そういえばやったことないか。とにかく、夜遊びは羽目を外すほどではなかったです。お酒は幸いにも下戸なのでそれで人生狂わせてもいませんし、たばこは絶対吸うものかと決めています。

だからまだ私は、「それをしない経験を経験している」と言えるでしょう。


人生経験が豊富というと、いろんな種類の経験を積んだことを指すように思いますが、こうした「それをしなかった経験」というのも、立派な人生経験になるのじゃないかと思います。

するかしないか、どっちがいいかなんてそんなことを考えるのは私にとって意味がありません。考える時間がもったいないから、自分に向いている方を進むだけです。

私は私。こんな私の経験がきっと役に立つときが来る。きっと人のお役に立てる時が来る。そう信じて。

限定品

人生とは素晴らしいものだと思います。
自分の人生はだれにも真似できない自分だけのもの。

人の人生を真似しようとしたって、その人の人生を送れるはずはありません。


どんな境遇にあったって、その人生は自分のもの。

御釈迦様はあらゆるものの所有を否定したけれど、その御釈迦様だって、人生だけは御釈迦様のもの。捨てようもないですもの。どのように生きたって、生きてきたその人生はなくならないんですから。


今が幸ならもちろんのこと、今の自分がつらくても、明るい未来が想像できなくても、暗い過去をひきずってても、それでも人生は素晴らしいものだと思います。

だってそれは、ほかに二つと無い、自分にしかない、たった一つの人生なんですから。


人生を楽しいととらえるか、つまらないととらえるか、苦しいととらえるか、もちろん人それぞれでしょう。


私は、、、私は楽しいと思って生きてます。一つしかないなんて、究極の限定品ですもの。限定品に弱い私には、これ以上ないお楽しみですから。

コラム 2003年

おはよう。ありがとう。

 気分が乗らないとき。
 機嫌が悪いとき。
 落ち込んでいるとき。

 母さんが気を利かせてくれて何かしてくれても、ありがとうを言えない自分がいます。いつもならなんの惑いもなく「ありがと〜」と言っているのに。

 とても申し訳なく思います。


 ありがとうと言えないそんな日は、朝からご機嫌斜めです。だからおはようが言えない。その時に無理して「おはよ〜」と言っていれば、気分も少しは上向いて、ありがとうだって言えたんじゃないだろうか。

 ありがとうは相手に感謝する気持ち。その一言で、相手も嬉しいし、自分もなんだか嬉しくなる。聞いてる周りの家族も、もちろん。

 おはようは、朝の挨拶。元気よく言えば、一日元気に過ごせる。言われた方も、きっと気持ちがいい。言われるのが嫌な気分の人がいたら、その人にこそ元気よく「おはよ〜」と言ってもらえればと思います。

 一日過ごすうちに嫌なことがあるかもしれない。ありがとうが言えない気持ちになるかもしれない。

 でも、夜眠って、また明日の朝起きて、元気に「おはよ〜」と言えば、なんとなく元気が湧いてくる。ありがとうも言えそうな気がしてくる。

 そしたら、昨日の分のありがとうをその時に次の朝に言ったっていいと思います。言われた方は、きょとんとするかもしれないけれど。


 おはよう。ありがとう。いつでも元気よく言える、そんな毎日を過ごしたいですね。

How To 人を信じる

 誰かを信じるというのは出来そうで出来ないことだと思います。気持ちを信じるとなるとさらに難しくなります。

 「相手はきっとこう考えているはずだ。」

 そう思っても、本当にそうである確証はどこにもありません。想像力を働かせれば働かせるほど不安になる。悪い方へ悪い方へと考えてしまう。それが、他人の心を読むことの出来ない人間という生き物の常だと思います。

 想像することで、信じきれなくなり不安になるのであれば、想像しなければいいのではないでしょうか。

 相手が信じるに足る人間であるのなら、想像などせずに、そう考えた自分を信じればいい。相手を信じるのではなく、自分を信じる。信じる対象を変えてみる。

 自分の考えであれば手に取るようにわかります。それを信じることなら出来るはずです。

 そうは言っても、自分を信じるということは自分に自信を持つということですから、それなりの難しさはあります。でも、「あいつは信用できる」という自分の判断だけを信じるのであれば、何とか出来そうです。

 うまく相手を信じることが出来れば、自分の気持ちが楽になります。信じきれないうちは頭の中で良いことと悪いことの堂々巡りが起こってしまいます。その堂々巡りの間中、自分の気持ちにダメージを与え続けます。それは、それほど良いことではありません。度を過ぎれば、回復不可能なほどになるかもしれません。

 私はこうやって、なんとか自分を支えています。他の人には難しい部分があるかもしれません。でも、弱い精神を持つ私でさえも出来ているのですから、困ったときは、自分を信じることで支えとしてみてはいかがでしょうか。

 元から強ければこんなことしなくていいのですけど。強い人に、あこがれます。

小さな幸せ

ふと幸せを感じるときがあります。
ぽかぽか陽気や肌に感じる心地よい風。鳥のさえずり、虫の声。
冬の日差し、夏の木陰。

春、夏、秋、冬。

心にゆとりがあるときは、そんな日常に幸せを感じられます。


贅沢を言えばね。その幸せをもっといつも感じたい。ぽかぽか陽気になるたびに「あぁ幸せだ」と思いたい。


最近宇宙ステーションから帰還したある宇宙飛行士が(多分ケネス・バウアーソックスさんだと思います)、「草(花だったかな)のにおいをかいで」地球に帰ってきたことを実感したと言っていました。

たったそれだけのことがすごくうれしかったようです。


ふと感じる幸せ。それがずっと感じられなければ、次にそれを感じられたとき、すごく幸せに感じられるのでしょう。

いつも接している日常がどれほど幸せなことであるか。
たぶん誰もが、その事実に気づいているのでしょう。


けれど、なかなか素直になれないですね。
幸せをいつも感じるためには、素直な気持ちになるのが近道なんでしょうか。

でもやっばり、なかなか素直になれないですよね。難しいです。

良いのかな

こんな上司の下では自分の力を発揮できないと言う人がいる。

最初に言い出したのはきっと、本当に上司のせいで実力を発揮できずにいた人でしょう。

今ではそれが、自分の力のなさを隠すために口にするセリフになっているような。

それとも、それすら自覚していなくて口にしているのかな。


世の中にはいろんな人がいる。見分けないと大変ですよね。

でもそうやって見分けることって、良いことなのかな。

仕事は出来なくても良いやつはいる。

もちろん、仕事も出来ず、なおかつイヤなやつもいるだろうけれど。

それを全部見分けて、態度を変えて接して。

それで良いのかな。

コラム 2002年

4

 4という数字は不吉だと言われます。はたして本当にそうなのでしょうか?4の復権を試みたいと思います。


 もちろんみなさん、そんなものは迷信であるというのはご承知でしょうけども。でも何となく気になりますよね。
 だから、みなさんが考えているであろうことをここで改めて示すことによって、自信をつけていただこうというわけです。



 不吉である理由としてよく言われるのは「4」=「し」=「死」という説。4という数字の読みが、死を連想させるから不吉だというのです。

 ほかにもあるかもしれませんが、とりあえずこの説に対する対抗手段を考えましょう。

 まず、その読み方について。4を「し」と読むのは、一部の言語地域の人たちだけです。中国語で何と読むのか分かりませんが、代表的なのは日本語ですよね。訓読みでは「よん」、音読みでは「し」となります。

 でも、4という数字は世界共通です。読み方は言語によって様々です。一つの言語の読みが死を連想させるからと言って、はたして不吉だという理由になるのでしょうか。
 そんなはずはないですよね。


 まずはこんなところでしょうか。
 次は視点を全く反対側に持っていってみましょう。つまり、死は不吉だというが、本当に不吉なのか?ということです。

 人は死を忌み嫌います。死の恐怖から逃れるために宗教に頼ることもあります。しかしそれでも、死は誰にでも訪れます。今までに、死から逃れられた人はいません。死は、絶対なのです。
 生まれた以上、必ず死は訪れます。

 そう。「死」は、人に対してこれ以上ないほどに平等な出来事なのです。
 こんなにも平等な出来事を、「吉」と「不吉」という分別の仕方をして良いものなのでしょうか。

 人は死を恐れるあまり、死を不吉なものとしてしまいました。しかし「死」、それ自体はなんら不吉なものでもなく、人に対して平等に訪れる人生の1ページでしかないことがお分かりいただけたと思います。

 人は「死」にたいしてあまりにひどい扱いをしていますね。もっと死について考えるべきでしょう。
 また、その死を読みが連想させるからと言って不遇な扱いをされている「4」もかわいそうです。そろそろ名誉を回復してあげても良い頃ではないでしょうか。


 とかく人は、ほんの些細なことから想像力を膨らませて、勝手に「吉」「不吉」という区別をしてしまいがちです。しかし、それがかえって自分の首を絞めていることに、気が付かなければなりません。

 4を不吉とするあまり、ものが4つそろうのをさけてみたり、部屋番号は4をとばしてみたり。余分な苦労を自らの手で増やしています。

 それらを一気に解消するのはおそらく無理でしょう。このひとりごとを読んでその気になったところで、世間の「常識」の壁は厚いのです。

 だからまず、こつこつと。身の回りでこつこつと。他人に押しつける必要はありません。4は不吉じゃない!と声高に叫んでみたところで、「それは分かるけどでもそれじゃ世の中渡っていけないよ」となってしまいます。

 だから、人に迷惑のかからないことからこつこつと。
 ・・・こつこつやるのは苦手ですか?それが一番の早道だと信じてください。信じれば、それが真実です。

お焼香の後に、手は拭かない

 お葬式の時、お焼香をすると葬儀屋さんがお手拭きを渡してくれることがあります。

 香をつまんで汚れた手を拭いてくださいという、粋な計らい。葬儀屋さんもなかなか、気が利きますねぇ

 そうじゃなくて。
 お香はきれいなものです。汚れたものをお葬式の場で燃やすわけないじゃないですか。

 また、お葬式の場は何となくケガレているような気がするから、手を拭くことによってケガレを落とした気持ちになる。思うにそれが、お焼香の後に手を拭くという行為の本質なのではないでしょうか。

 お香はきれいなものという先の文と思い切り矛盾しますが、仏教ではきれいなものと汚いものなどという区別はしません。すべての存在は「ただ、それ」であるだけで、それに付随するさまざまな属性は、人間が後から理屈をこねてくっつけただけに過ぎません。

 もちろん、ケガレというものも存在しません。すべて、人間の頭の中で作られたものなのです。それに縛られていることの、なんと不幸なことか。



 あなたの信仰がどうであれ、仏式のお葬式に参列するということは、仏教の教えに従って故人の冥福を祈るということであり、故人もまたそれを望んでいるということです。

 だから、手を拭かないようにしましょう。その行為は仏教の教えを否定して、きれいなものと汚いものという区別をするということ、きれいな場とケガレた場とを区別するということ。

 知らなかったのならば仕方のないこと。しかし、あなたは今、知ってしまった。
 差し出されるお手拭きを断る必要はありません。いただいた後、手を拭かずにしまってしまえばいいことです。

 仏教というのは、哲学・思想を突き詰めることが目的ではなく、その教えを実践すること、行動に表すことがすべてです。

月命日にはお墓参りに!

 毎月やってくる月命日。命日の月違い(日だけ同じ)の日のことです。お墓参り、行ってますか?祖父母もしくは両親の月命日ぐらいは、お墓参りに行きましょう。毎月お寺へお墓参りに行ってると、お寺がグンと身近になるはずです。

 といってる私は、あまりお墓参りに行ってません。お盆とお正月とお彼岸と、年に4回ぐらいかな。少ないです。お墓がすぐそばですから「行くぞ!」という気になれないんですよね。

 などというのは言い訳でして。こうして「ひとりごと」で取り上げるのも、自分に言い聞かせるためだったりします。

 幸い私の両親は健在ですが、祖父は早くに亡くなりまして、私が3歳の時でした。面影も思い出せないほどです。祖母は中学生の頃に亡くなりましたが、数年間寝たきりであったために、遊んでもらったりいうことが少なく、そのぶん思い出が少ないです。

 そういうこともあってあまりお墓参りに行かなかったのですが、最近、お墓参りをするという行為は、考えている以上に大切なこと何じゃないかと思い始めたのです。

 単に先祖供養のためとか、そういうことだけじゃなくて、もっと崇高な気持ちになれるような。

 頻繁にお墓に来る人と話していると、ギスギスしている感じのひとは皆無です。お参りをするうちに、いつのまにか人間形成がなされているんじゃないかと、思うのです。


 考えてみればご先祖様にお参りをするという行為は、たいていの場合、「ご先祖様のために」お花をかえたり、お水をかえたり、掃除をしたり、とするわけですから、「自分のため」という気持ちではそう長く続かないんですよね。

 お墓参りをするうちに、しらずしらずに「自分以外のひとのために」何かをしている。そういう気持ちを大きく育てている。

 なにか、今まで思いもしなかったほど、とても良いことのように思えてきました。


 だからやっぱり、月命日にはお墓参りをしましょう。月命日ぴったりとはいかなくても、月に一度ぐらいなら、なんとか時間がとれるのではないでしょうか。お墓が遠いと難しいですけど、近くにお墓があるなら、お墓参りに行っても、かかる時間は15分程度。往復の時間を合わせても大した時間ではありません。

 もっと気軽に、構えずに。お墓参り、しましょう。私も、心がけてお墓参りしますから。

 雲は良い。

 雲を見ていると、世の中が無常であることがありありと感じられる。

 常に姿を変え、一定の形でいることがない雲は、なにもかもが変化し続けていくのだということを、我々に教えているようでもある。

 言葉すらも一定の意味を表し続けられないことを、雲は、私の脳に、訴えかけてくる。


 「雲」と聞いたとき、あなたはどんな雲を思い浮かべるだろうか。
 入道雲、ひつじ雲、雨雲、雷雲
 それとも、青空に一つだけぽかっと浮かぶ雲だろうか。

 きっと、頭の中に思い浮かべられた雲は、人によってそれぞれで、一つとして同じ形のものはないのであろう。

 自分の気持ちを言葉で伝えることが、いかに難しいことであるか。分かっていただけただろうか。


 その「言葉」に、人は頼りすぎているように思う。
 人類史上、言葉ほど、自分の気持ちを伝えるのに適したものはないかもしれない。
 そうであったとしても、言葉が伝えられることの限界というものは、先ほど示したとおりだ。

 どんな形容詞をつけても、自分の思い描いた雲を、言葉だけで伝えることは不可能だ。それなのに人は、言葉だけですべてが伝えられると、「思い込んで」いるのではないだろうか。

 言葉の限界を自覚していても、いつのまにか、言葉の魔術に惑わされているのではないだろうか。


 では、どうやって気持ちを伝えるのか?
 ありとあらゆるすべを使って、体全身を使って、瞳を使って、もちろん言葉も使って。
 それでも、気持ちを正確に伝えることは不可能だと、覚悟する必要がある。
 「無理なのだ」と。気持ちを正確に伝えることは不可能なのだと。
 100%伝わることを、望んではいけないのだ、と。


 それでも、ふとした瞬間に、驚くほど正確に、相手に気持ちが伝わることがある。
 言葉など、発していないのに。何も、語っていないのに。
 人というのは、つくづく不思議な生き物だと、思う。

おじさんの呼び止め方

 前を走る車のブレーキランプが片方切れている。教えてあげた方がいいのかな。

 走りながら車内を伺うと、乗っているのは運転手一人。頭の形からして、どうもおじさんのようです。

 この先に信号があるから、信号待ちの時に声をかけてみようか。

 「ねぇおじさん、ブレーキランプ片方切れてるよー」


 ・・・「おじさん」じゃ失礼かな。


 「ねぇお兄さん」

 様子からして50才代に見えるし・・・


 「紳士」

 変だよね。


 「社長」

 まさかねぇ。

 考えてみれば「おじさん」というのは親類に使う言葉ですから、とても親しく呼んでいるわけで、それほど失礼というわけでもないのかな。

 それでもやっぱり「おじさん」「おばさん」は敬遠される表現のような気がするし。
 「おばさま」方は「おねいさん」と呼べば機嫌のよろしい方がおおいそうですが、かえって不機嫌になる方もいるらしいし。

 でも真剣に「おねいさん」と見間違えることもありますから失敗しても言い訳は出来るね。

 やっぱり問題は「おじさん」か。「おにいさん」と見間違えることはあまりないし・・・


 「おじさん」の代替呼称大募集です。おじさんを呼び止められないワタクシに、いい呼び方をご教授くださいませ。


 ・・・もちろん今回のおじさんにはブレーキランプが切れてることは伝えられませんでした。

雨の日の思い出

 今はもう手放してしまったユーノスロードスター。
 思い出すのは、いつも雨の日。

 運転席から上に手を伸ばすとすぐに幌に当たってしまう。頭上の空間は5センチあるだろうか。とても狭い。

 だがそのために、外界の雰囲気を常に感じることが出来る。

 雨の日に幌にふれれば、雨が幌に当たる感触が伝わってくる。普通の車にはない感覚。自分が雨に打たれているようだ。雨が、すぐそばに感じられる。

 冬の日に幌にふれれば、外の寒さが伝わってくる。現代の車とは思えないほど、外界の温度を敏感に反映する車内。

 季節が、身近に感じられる。


 残念ながら、私の今の生活は車無しでは成立しない。もちろん、無しでも生きていくことは出来るが、多くの人に会って教えを広め、自分もいろいろな考えに感化されることを望める生活は難しくなる。

 そうした生活の中で、車という文明の利器に乗りながらも、季節を感じられるロードスターは私の大切な相棒であった。その相棒と別れて、半年が経つ。

 新しい相棒は、人も荷物もたくさん載せられて、たくましく走ってくれる。雨が降っても雪が降っても大丈夫そうな、頑丈な体を持っている。
 乗っている人の命を、今までよりも遙かにしっかりと守ってくれる。

 それはそれで大切なことだ。
 だけどやはり、寂しい。


 強い雨の日は、不安に駆られる。はたして雨漏りは大丈夫だろうか。
 幌を激しく打ちつける雨が、すぐ頭上にある。

 その場面にはもう出会えないが、そのとき感じた感性は、これからも大切にしたいと思う。

やめる勇気とやめない勇気

 例えば、何かの組織の役をしているとします。自治会の会長とか、仕事のプロジェクトリーダーとか。特別な役職でなく、普通の会社員でもあてはまると思います。

 精力的に役割をこなしていたのですが、とある事情のため、その責務を全うすることが難しい状況になりました。

 このとき、無理をしてでもその役を負い続けるべきか、すぱっと辞めて、後任に任せるべきか。やめるべきか、やめないべきか。

 結論は人それぞれでしょう。がんばって続けた方が良いという人もいれば、後任に任せた方が周りのためにもなるという人もいるでしょう。
 さて、どうするべきか。

 たまには。
 そう、たまには冒険してみよう、というのが、今回の裏テーマです。

 自分の出した結論と、逆の選択をしてみましょう。
 がんばって続ける選択をした人は、やめた場合の処置に自信がない可能性があります。続けることに比べて、ですけど。その後の自分の評価とか、もし評価が落ちてしまったときに、盛り返すことが出来るのか、とか。

 やめる選択をした人は、続ける自信がない可能性があります。やめることに比べて、ですけど。これだけでも手一杯なのに、もう一つ大変なことが起こったのだから、どちらかに絞らなければやれそうにないとか、そんな時間を確保できない、とか。

 二つを比べて、何とかなりそうな方を普通は選択しますよね。
 かっこいい人は、周囲の予想を裏切って、逆の選択をしたりしますが。

 そう。そういう選択をしてみましょう、と言うことです。自分に出来そうもない方を選択してみましょうと。自分に出来そうもない方というと悔しいですから、素直に考えて出した結論の、逆をしてみましょう。

 いままでの自分の決断がどちらかに偏っていたならばなおのこと。
 自分の能力の幅が広がるかもしれません。
 うまく乗り越えられれば自信がつきます。
 乗り越えられなくても、必死になって周囲に相談をしたりするでしょうから、人間関係を新たに構築できる可能性があります。

 そしてなにより、今までにない視点をもてるようになります。これが一番のポイントです。

 自分の考えに無い結論を選択するのは勇気のいること。やめる勇気もやめない勇気も、自分の考え通りの決断であれば「当然の行動」であって「勇気」ではないのです。
 もちろん状況によっては、その決断は「無謀」ということにもなるわけですが・・・

 その辺りは周囲の人に相談すれば解決します。本当に無謀ならば、相談する人のほとんどが止めてくれるでしょうから。

 では、その辺りにも気をつけつつ、新しい自分を発見するチャンスを逃さないよう、日々心がけていきましょう。

戒律は自分のために

 戒律とは、自分のためのものである。


 曹洞宗では、殺生を戒律で禁じています。人を殺すことのみならず、むやみに動物を殺すことも、植物の生命を奪うことも禁じています。さらに、自分の命を奪うことも。

 ほかにもいくつか戒律があり、授戒会という儀式をとおして、その戒律を和尚様より授けていただけます。いわば修行の第一歩ですね。

 我々僧侶はとうぜんこの戒律を授かっているのですが、檀信徒のみなさまにもぜひ授かっていただこうと、布教を行っているわけです。

 それはともかくとして。


 いま解説したとおり、戒律は授かるものです。いただくものです。けっして強制されるものではありません。
 戒律を犯したときは、自分で自分を律する必要があります。修行が未熟なうちはそれができないため、先輩の僧侶に厳しく指導していただくことになります。

 この指導だけをみてしまうと、いかにも戒律を強制されているようですが、何度も言うとおり、戒律とは授かるものです。自分の意志で、授かるものです。


 なぜ何度も同じことを繰り返し書いているかと言いますと。
 最初に書きました、殺生を禁じる戒律。自分の命を奪うことも禁じていると書きました。単純に表現すれば、自殺はいけないこと、と言っているわけです。

 ここで注意しなければいけないのは、戒律で禁じているからといっても、自殺した人を責めて良いわけではないということです。戒律とは、あくまで自分を律するためのもの。人に押しつけるためのものではないのです。

 それゆえに、我々僧侶は、自殺した人でも他との別なく、葬儀を営むのです。
 ちなみに曹洞宗の葬儀は、先に述べた授戒会を含んでいます。授戒した後、弔われます。

 戒律とは、自分のためのものなのです。他人に強制するべきではありません。もっとも、授戒した人が戒律を犯している場合は、ともに修行している身として、厳しく注意をするのは当然ですね。

 では、授戒をしていない人が戒律に反した行いをしている場合はどうしたらいいかと言えば、こうした戒律があるから、こうしたほうがいいのでは、と提案するのが良いのではと思います。

 無理に押しつけるのでは反発をされるだけですから、やんわりと伝えましょう。そうやって、一人でも多くの人が戒律を守って生活していけば、この世の中、平和になるんですよね。


 平和な世の中に、早くなってほしいなぁ。

聞き出し上手

 「聞き出し上手な人」っていますよね。

 「聞き上手」とは違って、「聞き出す」のが上手な人。

 分からないことがあったりしたときに、躊躇なく人に聞くことが出来る人、そしてそれが、絶妙にうまい。相手を困らせることなく(=また聞きに行っても相手は答えてくれる)自分に必要なことをしっかり聞いてくることが出来る。

 うらやましいですね。

 私はうまくできません。元来会話が苦手なので、聞きに言っても嫌な「間」が出来てしまいそうな気がして、行動に移しづらいのです。

 だから自分で調べる。ひたすら調べる。

 そのおかけで、分からないことがあったらまず自分で調べる癖はつきました。
 でも柔軟性がないんですよね。

 「このことはあの人ならきっと知っている」ということでも、聞くのをためらって自分で調べてしまう。
 それで調べがつけば良いのですが、 調べでも分からなかったときに、自分で調べたということに満足してそれっきりになってしまうこともしばしば。

 これではいけません。

 なんとか改善しなければ。人生は短いんです。のんびりするときは必要ですが、それだけにやるときは効率的にピシッとやらないと。

 人に聞いてばかりでは困りますが、調べて分からなかったときにちゃんと教わるようにしないと。

 で、どうしたらいいかというと・・・どうしたらいいんでしょう。
 誰か教えてくださいな。

 てことを聞き出し上手な人のところに聞きに行かなければいけませんね。なにはなくともまず実践と言うところでしょうか。いやはや先生、厳しいですなぁ

弱音

 弱音を吐きたくなるときがあります。

 例えばボランティアをしているとき。主にイベントの企画や運営をしていますが、当日になると逃げ出したくなります。
 計画通りにことが運べばいいのですが、そんなことは、まれ。必ずハプニングがあり、素早い対処を求められます。

 昨年暮れにはじめて「総括」という責任ある立場を任され、うまくできなかったことが、自分のなかで消化できていないのかもしれません。

 最近それとは別の団体のイベントで、「総括」を任されました。どうもぎこちない自分がいました。まず、自信がない。力押しは得意だけれど、それがあとからどう評価されるのか。すごく心配。

 案の定ハプニングが起こり、力押しで解決を図り、直前に強烈な反対意見を伝えられて解決法を変えるということがありました。

 そういうときに限って「周りの意見を聞いてから」という大事な姿勢が欠けているんですよね。。。普段は控えめで自分の意見なんかそれほど主張しないんですけどね。

 みんなの意見として「総括」を任せられたのだから、切羽詰まったときの独断は許されるべきでしょう。でもそれは、たとえ独断であってもあとから理解が得られる必要があるんです。

 私にはそれが出来ない。
 出来なかった。

 だからもう、やりたくない。

 ボランティアですから、やりたくなければやらなければいい。企画を立てている途中でもない今なら、やめることは簡単です。

 とはいいつつも。
 逃げたければ逃げればいい、と言葉を置き換えたとたん、絶対にやめたくなくなります。

 時として、立ち止まることも必要でしょう。一時的に逃げることもあるでしょう。


 でも。
 最終的に逃げたまま終わったのでは、自分に納得できません。

 だからやっぱり、このまま続けていくのでしょう。
 どんな思考ルートをたどってもたどり着く結論はいつも同じ。
 そのことが、自分を苦しめる一番の原因かもしれませんね。

 自分で自分を苦しめている。短絡的に考えればそうなるのかもしれません。
 それでも。
 ボランティアをしているとたくさんの笑顔に出会えます。そのためだったら、苦しんでも良いかなぁと、思うんです。

幸せって何ですか?

 幸せって何ですか?

 お金があること?
 たくさんの使用人を召し抱えて、身の回りのことはすべて任せて、社交界にでも出かけて。

 それが幸せ?

 突然お金がなくなっちゃったら、自分の身の回りのことさえ出来ないあなたは、今日生きていくことすら大変なことになってしまいますよ。

 そんな不安定な生活が、本当の幸せ?

 自分の足でしっかり立てることは、幸せの最低条件。
 お金持ちで裕福もいいけれど、自分の足でしっかり立てなければ、それは砂上の楼閣です。

 自分の足で立ち、しっかりと歩む。
 いわゆる平凡な日々。
 でも、それが幸せの最低条件。

 平凡な日々。平凡。
 平凡に生きる日々。
 けど平凡って、なにが平凡?世間の平均が平凡?
 考えてみると難しい。

 平凡とは、自然体のこと。

 じゃあ自然体になるには、どうすればいいの?

 えとね、自然体に必要なものはね・・・

 向上心でもなく、努力でもなく、誠実さでもなく。
 反対に、怠惰でもなく、不真面目でもなく、手抜きでもなく。

 わかりにくい?

 生まれたばかりの赤ちゃんを考えてみましょう。
 赤ちゃんは、何の勉強もしてないのに、お腹が減ったことが自分で分かるし、痛みも感じることが出来るし。泣くこともできるし、笑うこともできる。人間に必要な最低限の機能はちゃんとものは備えているんです。

 すごいことだと思いませんか?赤ちゃんでも、成人した人間と、大して変わらないんですよ。

 そしてね。この赤ちゃんの状態こそが、自然体であり、平凡であるのです。
 努力をしているわけでもなく、それでいて怠けているわけでもない。
 泣くにしても笑うにしても、それはとても素直な感情表現。欲も分別もないんです。

 人間は成長するに従って、競争心とか、執着心とか、がんばらなくちゃとか、しっかりしなくちゃだとか、いろんなものを身につけていきます。

 でもそうやっていろいろ身につけていくと、いつのまにか欲やら分別がでてきて、自然体を失ってしまうのなのです。

 人間は成長すれば必ずそれらを身につけてしまうけど、それは自然体とは全く逆になることなんです。

 平凡になる、自然体になる、ということは、自然体であったときの自分を取り戻すこと。つまり、赤ちゃんの時の心を取り戻すこと。

 それが出来てようやく、本当に平凡な日々を送ることが出来るんです。大変ですよね。

 だから、それが出来た人のことを、「仏様」と敬意を込めて呼ぶのです。

 ・・・でもそうやって考えると、「仏様」になれそうな気がしませんか?平凡な日々が送れれば仏様だなんて、簡単そうな気がしますよね。

 そうなんですよ。
 仏様になるのはそんなに難しいことじゃないんですよ。
 だから、みんなで仏様になりましょう。平凡な日々を送りましょう。

 そして幸せになりましょう。

長生きということ

 目の前に100歳の人がいる。
 あなたは尊敬しますか?

 ある時お寺で会議が開かれました。議題も終え、雑談をしていたとき、70歳目前の人がこんなことを。
 「となりの地区には100歳ぐらいの人がいっぱいいるんだってね」

 初耳でした。でも、周りの人も同じことを言います。どうやら事実のようです。
 同じ人が
 「(100歳まで)まだ30年もあるなぁ」


 私は今年27歳。「まだ30年も」の30年にも満たないんです。このとき初めて、100歳ということ、長生きということ、それがいかに非平凡であるかに気がつきました。

 長生きをするということは、それだけで大変なこと。漠然と感じていたよりも、もっとずっと大変なこと。
 世間では、あまり長生きすると煙たがられるような風潮もありますが、とんでもない。100歳の人は、自分には出来ないかもしれない、いや、出来ない可能性の方が高いことをしているんです。


 尊敬します。
 長生きは、非平凡。それだけで、強烈な個性と言えます。私にはこれほどの個性はありません。
 尊敬します。
 私の何倍も生きている大先輩ですもの。


 100歳まであと73年。私はこの先、どんな人生を送るのだろうか・・・

お墓参りへ行こう!

 お墓参りへ行こう!

 >なぜ?

 お墓参りへ行こう!
 なぜなら、お盆だから。

 お墓参りへ行こう!

 >何でお盆だと、お墓参りへ行くの?

 お墓参りへ行こう!
 お盆はお墓参りにいくものなのさ。細かいことは気にするな。

 お墓参りへ行こう!

 >そんなんじゃ納得できないよ。

 お墓参りへ行こう!
 納得なんてしちゃいけない。いつまでも追求し続けるんだ。

 お墓参りへ行こう!

 >答えになってないよ。だからなんでお墓参りへ行かなきゃならないのさ。

 お墓参りへ行こう!
 行くと言ったら、行くんだよ。

 お墓参りへ行こう!

 >ふーん。行ってらっしゃい。

 お墓参りへ行こう!
 そんなこと言わずに一緒に行こうよ。

 お墓参りへ行こう!

 >一人で、行ってらっしゃい。

 お墓参りへ行こう!
 一人より二人、二人より三人、たくさんで行った方が楽しいじゃん。

 お墓参りへ行こう!

 >お墓参りって、楽しいの?

 お墓参りへ行こう!
 う、うん。楽しいよ。楽しいからさ。一緒に行こうよ。

 お墓参りへ行こう!

 >しょうがないなぁ。

 お墓参りへ行こう!

 お墓参りへ行こう!

 >はいはい。お墓参りへ行こうね。

道しるべ

 思うに、お盆ほど一年を振り返るに適した時期はないだろう。

 昨年夏から一年間に亡くなった人を振り返り、偲ぶ。お施餓鬼にお寺に来れば、そのお寺のお檀家さんで今年亡くなったひとのいるお宅が全員集まっている。

 そう言えば、あのお宅でお葬式があったときはあんなことがあったなぁ・・・

 などと、全然関係ないことを考えたりもする。それにつられて、一年間の記憶が蘇ってくる。

 年を分ける年末年始は、気ぜわしく思い出に浸るどころではない。

 だがこの時期であれば、暑さでぼーっとする時間が多くなる分、記憶を紡ぎ出す機会も増える。

 終戦記念日もあり、数十年前に思いを馳せることもある。
 先祖供養にちなみ、やさしかったおばあちゃんを思い出すこともある。

 過去一年の記憶にふれたのをきっかけに、いろんな記憶があふれ出してくる。
 その時々の思いも連れて。

 人の心は移ろいやすい。
 だが、あの時のあの思いは、いつまでも記憶の中にある。

 思うに、お盆ほど一年を振り返るに適した時期はないだろう。
 一年と言わず、記憶の彼方に埋もれた様々なものを、この機会に思い出してみよう。
 今の自分を構成する要素を、自分の目で確かめることもできるかもしれない。

 記憶はあなたにとって大切な道しるべ。
 自分の道を歩むためには、道しるべをしっかりと見つめないとね。

後ろ姿

 車の後ろ姿って、いろいろですよね。
 車種ごとにさまざまで、同じ車種でも年式によってさまざまで。

 そんなこと言えば正面だっていろいろなんですけど、思いを馳せるなら後ろ姿でしょ。

 きっと、車の開発に携わっている人なんかは、自分が関わった車の後ろ姿を見るたびに、

 「苦労したよなぁ」

 とか、

 「上司に怒られながら造ったんだよなぁ」

 とか、

 「あのころ付きあってた子とは・・・」

 とか、

 まあ、いろいろ、思い出してしまうんでしょうね。

 そんなこと言ったら電化製品とか、家とか、そりゃあもう、いろんなものに当てはまりますけどさ。

 思いを馳せられる後ろ姿を持っているものってあまりないでしょ。
 電化製品の後ろ姿を見て思いを馳せるのはかっこよくないかも・・・

 そんな、思いを馳せる人の姿に思いを馳せて、かってにロマンチックな気分になってしまって、あ〜

 想像されるのは、ひたむきに何かに取り組む姿。
 そういう姿には惹かれちゃいますね。
 がんばってる人はかっこいいんですよね。

 他人に「がんばれ」って声をかけると、何かプレッシャーをかけてるような気もしてしまうけど、自分が「がんばる」のは、そんな気兼ね無しに思う存分がんばれる。

 だから。
 がんばって、かっこいい人になろうじゃないですか。

自力本願ということ

 仏教で言えば、お題目を唱えたりすること。
 キリスト教などの一神教で言えば、神様にお願いすること。

 これらはいずれも他力本願。

 神様にお祈りするだけなら、他力本願とは言えないかも。でもお願いは、間違いなく他力本願でしょう。

 とにかく、自分以外の存在に頼ることが、他力本願と考えると分かりやすいでしょう。

 自分が窮地に陥ったとき、助けを求める見えない存在がいたら、どれほど心が安らぐことでしょう。
 その一時の安らぎが、窮地から脱する術を思いつくきっかけとなるかもしれません。他力本願の実利を考察すれば、こんな考えも出来る、という一例で、それがすべてではありませんけど。

 もっとも、宗教の大原則は「信じること」。神様などを信じて行動することが、あなたを窮地から救いもするし、命を落としたとしても天国・極楽に召されるわけです。

 ところが、我が曹洞宗は自力本願とも言える教えを説きます。
 誰に頼るわけでもなく(助けは必要ですけど、求めはしない)、仏の教えのみを信じて行動するわけです。

 (書いてみて気付いたんですけど、言葉にすると他力本願との違いは微妙ですね(笑))

 たとえば、窮地に陥ったときは、神様仏様に助けてくださいとお願いするわけではなく、それまでに身に付けた仏の教えに則って行動するのです。

 信じるものは、今までの自分の修行と、それの基となる仏の教え。つまりは結局、仏の教えのみを信じる。
 神様がきっと助けてくれる、と信じるわけではなく、仏の教えに従っていれば必ず助かると信じるわけでもなく。仏の教えのみを信じて行動し、結果が第一ではない。

 つまり、窮地に陥ろうと陥らまいと、することに何ら変わりはないと言うことですね。

 仏教は、窮地を脱することを目的としているわけではなく、平穏に生き抜くことを目的としているわけでもない。
 仏教は目的でも手段でもない。ただ平穏な心を求める人への、確かな道しるべ。

 そんなわけで。
 曹洞宗のウリである坐禅、坐禅すると、落ち着きますよ。
 坐禅をするのは自分ですから、まさに自力本願。

 独りよがりでは困るけれど、他人任せも困りもの。
 自分の人生ですもの。自分の力で生きていきましょう。

 ちなみに、曹洞宗の僧侶が仏様に合唱礼拝するのは、何かをお願いしているわけではなく、仏の教えに感謝している姿なのですよ。体の良い言い訳のようにも聞こえますが、この違いはとても重要なんです。じゃないと、曹洞宗自体が成立しませんからね。

親は子の鏡

 私の父親は、車の運転がゆっくりです。
 ゆっくり、というか、ゆったり、というか。

 スピードは控えめで、安全運転が基本です。

 安全運転とは、ゆっくり走るだけでなく、あらゆる局面を想定して、最大限の注意を払う、ということですね。他人を守り、同乗者を守り、そして、自分も守る。

 それが分かったのは、自分で免許を取って何年かしてからですけれど。

 私も基本は安全運転です。まあ、若いからそれなりに、というときもありますが。

 無謀な運転を見かけるときがあります。
 でも、私はそんなこと、出来ません。

 無意識のうちにブレーキがかかります。
 「鉄のかたまりを運転する以上、安全に運転するべきだ。」

 それが脳内に植え付けられているのは、父の影響に他ならないでしょう。

 父がブンブン飛ばして走るような人であったら、私もきっと、それが普通だと思ったことでしょう。

 たとえ、教習所で安全運転を学んだとしても。


 親は子の鏡。
 子は、親の背中を見て育つ。

 私はまだ結婚もしていないから、大きなことは言えません。
 でも、これだけは言っておきたい。

 世の中のお父さん、もちろんお母さんも。
 子どもはいつも自分を見ているということを、ちゃんと分かっていますか?
 あなたの背中は、子どもに堂々と見せられる背中ですか?

 親は子の鏡。
 そして、


 子は親の鏡。


 自信を持ってみせられる背中に、しましょうね。

組織

 何かしらの組織が、活き活きと発展していくのは、組織が形成されてからの、ほんの短いひとときだけなのかもしれないと、ぼけーっと考えました。


 新しく組織を立ち上げたときや、既存の組織に大手術を加えたとき。

 そういった時は、自分の利害にとらわれることなく、組織の発展のために邁進する人物が登場します。


 彼らが第一線を退くと、急成長した組織を、緩やかな発展軌道に乗せるために、創造者よりは力は劣るものの、安定感のある人物が登場します。


 そして、組織が順調な発展軌道に乗り、第2世代の彼らが退くと、今度は、自分の利害を第一に(もしくは優先順位の高いところに)考える人物が、「多数」登場します。


 結果、彼らが組織を衰退させ、再び新しい組織や、改革が起こります。



 日本の過去の歴史を大雑把にかいつまんで、自分の都合に合うように捉えると、だいたいこんな流れの繰り返しに思えてきます。


 人間を初めとする、すべてのものに「生」と「死」(「始」と「終」)があるように、組織にも「生」と「死」があるのが当然なのかもしれません。


 また、そう考えると、人間に「生」と「死」があるのは、人間を衰退させることなく、絶えず前に進ませるための、巧妙な仕掛けのようにも思えてきます。



 こんなとき、ふと思うんです。


 「誰かの手のひらの上で、ころがされている」


 それがお釈迦様の手のひらの上なら納得も出来るけど、それ以外の何者かだとしたら・・・




 お顔を拝見したいものですね。

優しさ

 宝くじを買ってもなぜ当たらないのか。


 それは、この世に生まれてきたとこと自体が、とても運の良いことだから。

 私の場合はさらに運の良いことに、仏教という心から信じることの出来る教えに出会えたのですから、もう一生分の運を使い切ってしまったかもしれません。


 ところが悲しむべきことに、この「生を受ける」ということを、「生まれたくて生まれてきた訳じゃない」と否定する人がいます。


 私はまだ一度もお会いしたことはないですが、世の中にはそういう人がいるようです。


 たしかに、生まれる生まれないは、自分では選択のしようもないことかもしれません。何かしら楽しいことがあれば、生まれてきて良かったと思えるでしょうが、まだ何一つ楽しみを感じたことがない人もいるかもしれません。


 それでも


 あなたの意志とは関係なく、あなたの周りの人は、きっとあなたに会えて良かったと思っているでしょう。

 自分の生まれてきた意味を考えてしまうあなたのその繊細さは、他人への優しさとなっていることでしょう。


 生まれてきた意味は分からなくとも、「今」生きるべき理由には気付くことが出来るでしょう。


 「あなたに会えて良かった思っている、あなたの周りの人のために。」


 それを自分の喜びと感じられる人になってほしい。
 そうすれば、ほら。生まれてきて良かったと思えるでしょ?


 みんながそうやって、お互いに優しく出来たら。



 いつの日か、争いが過去のものになりますように。

価値観

 「価値観」


 人によって様々ですよね。
 物事は、それを見る角度によって全く違ったものとなる。よく言われることです。


 目の前に机がある。
 机の上に乗ったら、叱られた。


 そんな経験無いですか?


 子どもの頃の価値観というのは、大人のそれとは全く違います。観る角度、捉える角度が全然違います。

 子どもにとっての机は、大人にとっての机よりも、もっと幅広い用途に使えるものです。

 教室の机であれば、それはあたかも川の中の飛び石がごとく。


 あの頃は楽しかった。
 でも、なぜ楽しかったのでしょう。

 自由な想像力と、それを実現する行動力。年を重ねれば重ねるほど、失われていくもの。

 そのかわりに経験と知識を得ていくんですけどね。
 でもちょっともったいない気がしませんか?


 失われたと思われたその感覚、実はちゃあんと残っていたりするものです。
 日々の忙しさ、自分を惑わせる悩みのせいで気付きにくいところにしまわれているだけ。

 思い出してみましょうよ。みんながみんな、好き勝手に想像を膨らませて、ちょっとしたことで、ううん、何もなくても、ただ自分が生きているだけで楽しく遊べる感覚を。

 あの、楽しかった頃を。

コラム 2001年

懺悔

 車で走っていると、反対車線に、大きな側溝に片輪を落としてしまったトラックを発見しました。

 トラックの脇にしゃがみこみ、おそらく傷の程度を調べているのであろう運転手。

 それを見ながら通り過ぎる私。

 トラックには運送業者の名前がありましたから、運転手はプロということ。事故時の対応は心得ているでしょう。

 通り過ぎる車に見向きもしないのですから、必要な手配は済んでいると思われます。

 「すべては解決しているはず。あとはレッカー車を待つだけ、だろう」

 でも、やっぱり許せない。

 「大丈夫ですか?」というたったひとことの声かけをしなかった自分を。

 「困っている人に、ずくに手を差しのべられるように」

 それが、すべてを拘束された修行生活を嫌い、仲間よりも一足早くお山を下りた理由。それだけが、理由。ただそれだけをしたかった。

 それなのに、今の自分はどうだ。

 状況を見れば、たしかにもう解決に向かっている状態だと分かる。でも、本当にそうなのかは分からない。一言、

 「大丈夫ですか?」

 と声をかけるだけで、一切の状況判断なしに、その人の状態が分かるというもの。

 いったい何のためにお山を下りたのか。何のために禅師様のお膝元で修行出来る機会を捨て去ったのか。

 悔いる時間はない。挽回すべく、行動を起こすべし。

記憶

 国道23号線。助手席からぼーっと眺めていると、ふと、楽しかった思い出がよみがえってきました。
 当時好きだった子を、思い切ってデートに誘って出かけた水族館。その帰り道。

 「あの時は幸せだったなぁ。何もかもうまくいってて・・・」

 そんなことを考えるぐらいですから、今は幸せな出来事が起こらない日々を送っているんですが。。。

 初めて、かな。あまり感傷的な人間ではないので、何かをきっかけに昔のことがこんな形で思い出されるということがなかったのです。

 この世に生まれ落ちてもう26年ですから、感情なさすぎなような気もしますね。もしくは、そういう思い出が少ないのか・・・それは言うまい。

 「道路って、車が走るだけじゃないんだ。思い出ものせてるんだ。」

 珍しく、安っぽいドラマにも出てこないような言葉が頭に浮かびました。たまにはこんなのも良いものです。ちょっとセンチメンタルな気分に浸って・・・

 これで隣にいるのが彼女だったらなぁ。

 残念ながら団体行動で、運転手は、「友達だよ」と言った張本人。うーん。流れはこちらに向いてはいないようです。

 あ〜あ

運動会

 甥っ子の通う幼稚園の運動会へ、ビデオ撮影を頼まれて出かけました。甥っ子の出場種目は2種目。年少さんのためか、プログラムの前半でその2種目ともが終了します。

 ビデオ撮影はなんとかなんとかこんなもの、という結果で、頼まれた側としては役割は果たせたかなという具合。この時点で運動会終了まで1時間半ほど残っていたのですが先に帰るわけにもいかず、ぼけーっと眺めていました。

 父親、母親とともにダンスをしたり、かけっこをしたり、最後には年長さん総出場のリレーもあり、なかなか楽しめました。

 なかでもダンスは、みんな楽しそうで、一緒に踊っているお父さんお母さんも幸せそう。見ているこちらも、なんだか幸せな心持ちになってきます。

 みんなみんないい笑顔。やっぱり子どもは笑顔が一番だし、それを見た親や周りの人間も、自然と笑顔になる。幸せになる。子どもの笑顔を守るのが、一番大切なことかなぁ、と思ったりしました。

 今朝、目が覚めると、友人から一通のメールが来ていました。「始まっちゃったね。・・・空爆開始」
 TVをつけると案の定、空爆騒ぎ一色です。

 そんななかでの幸せの光景。

 今この瞬間にも、満足な食べ物もなく、亡くなっていく子どもたちがいる。でも、目の前にはこの世の楽園かと思うような、みんなの笑顔。この星に生きるすべての人が、この幸せを手にするべきだ。

 子どもの笑顔と、それを見た大人の笑顔。そんなありふれた光景を、ほんとうにありふれた光景にするために。

 そのために自分に出来ることは?

 私に出来ることは、仏の教えに従い、それを広めること。一切の争いを戒める教えを含む仏教を広めること。ただそれだけ。でも、それが私の望みを叶える、一番の近道だと思っています。

お年忌

 お年忌。法事とか、年回忌とか言いますね。どれも表現の違いであって、どれもあっています。

 そんなことを言いたいわけではなくて。

 お年忌とは何か。それをちょっと考えてみましょう。

 普通、亡くなった日の100日後に、「百ヶ日」というお年忌をします。年単位ではないのですが、慣習的にお年忌に含まれるようです。

 その後は、一年後に一周忌。2年後に3回忌。2年後なのに3回忌というのは、命日が3回目、というわけですね。その後は、7回忌、13回忌、17回忌と、3と7のつく年回忌が続きます。47回忌のあと、50回忌があり、その後は100回忌となります。

 でも、50回忌、100回忌というのは聞いたことがありませんね。だいたい33回忌を終えると、その後はやらないことが多いです。孫、ひ孫の代になってしまいますから。

 もちろん、我が曹洞宗の大本山である永平寺を開かれた道元禅師様などの、とってもすごかった人については何百回忌でも行います。来年は道元禅師様の750回忌だったりします。

 それはともかく。

 お年忌って、なんのためにやるのでしょう。疑問に思ったことはありませんか?

 一般的に言われているのが「先祖供養のため」というものですね。自分たちが生まれるご縁を与えてくださったご先祖様を、敬い、供養する。そんなところでしょうか。

 供養するというのは、お供え物をして、ご加護を願い、冥福を祈る、と言うことのようです。

 でも、仏教は祈りの宗教ではなくて、仏への道を歩む宗教です。みんな仏様になれる資質を持っている。だからみんな、仏様となるべく、修行をしていきましょう。そう呼びかける宗教です。(宗派によって違うところもありますけど・・・)

 その仏教が「冥福を祈る」というのは、違和感がありませんか?

 さて。では、お年忌とは何なのでしょうか。

 わかりやすく表現すれば、「きっかけ」であるといえるでしょう。菩提寺のご住職にお会いするきっかけ、法話を賜るきっかけ、お経を読むきっかけ。(正太寺では、お年忌の時にはみなさんにお経本を持っていただいて、いっしょにお経をお唱えします)

 菩提寺のご住職にお会いして、直接お話をする機会がもてるということは、菩提寺とのつながりを強化する上でとても重要なことです。つながりが強まれば、気軽に相談事もできますし、仏法に触れる機械も増えます。とても良いことです。

 法話を聞くことはとても良いことです。法話は、いろいろなことについて考えるきっかけを与えてくれます。仏に至る道を歩む仏教徒にとって、それはとても刺激となり、次の一歩の活力となるでしょう。

 お経を読むことはとても良いことです。現代語ではありませんが、日本語で書かれたお経もあります。訳の分からないお経でも、実際に漢字で書かれたお経本を見ると、何となく意味が分かるところもあります。

 曹洞宗で一番用いられるお経に「修証義(しゅしょうぎ)」というお経があります。この冒頭に「生を明(あき)らめ死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり」とあります。

 「生と死をはっきりとさせることは、仏教徒にとって一番大事なことですよ。」ということです。私はこの一文を読むたびに、「生とは何だろう、死とは何だろう」と自問自答します。

 この話を聞いた人のうち何人かは、次にこの文を目にした時に、私と同じように自問自答することでしょう。

 そうやって考えるきっかけを与えてくれる。様々なきっかけを与えてくれる。

 そしてこれは、亡くなられた方が現世に生きる我々に与えてくれた、大事なご縁でもあります。

 その功徳に感謝しながら、そのきっかけを大事に自分のものにする。それがお年忌です。ご先祖様のご冥福をお祈りする。それももちろん大切なことです。でもそれと同時に、こうした様々なきっかけを与えてくださったご縁を大切にしましょう。

 お経は長くて退屈で、足もしびれる。でもそう言わずに、その中にあるきっかけを探してみてください。きっと、有意義な時間になるはずですから。

原因は?

 アメリカ、ニューヨーク州、およびワシントン州でのテロ事件。報道番組で航空機が激突する瞬間や、犠牲者の遺族や行方不明者へのインタビューをみるたびに、強い憤りを覚えます。

 「報復しなければ」とうてい僧侶とは思えない考えが、頭の中に浮かびます。

 でも、ちょっと待って。

 以前「ひとりごと」でも取り上げたように、何事にも原因があり、結果がある。そう、だから、今回のテロだって、何かしらの原因があるはずなのです。

 その原因を詳細に調査せずに、安易に報復行動に出るのは、知性ある人間としていかがなものか。

 テロは犯罪です。殺人事件であれば、犯人の特定はもちろん、殺人に至った経緯を究明します。それと同じことが果たして為されるのでしょうか。

 現在、アメリカの国家機関が総力を挙げて犯人特定を急いでいます。でもその先、原因の究明はするのでしょうか。テロリズムにそんな捜査は必要ないのでしょうか?

 テロは、追いつめられた人たちにとって、唯一、強者に立ち向かう手段だと考えられます。そのテロが、昔から幾度となく繰り返されてきました。それはつまり、この地球上に追いつめられた人がいるということです。

 その彼らと平和的な決着をつけない限り、テロは終わりを告げません。今現在、今回のテロの首謀者として名前が挙がっているウサマ・ビン・ラディン氏を打倒したところで、第2の「ウサマ・ビン・ラディン」が現れないと、どうして言えるでしょうか。

 報復は、さらなる報復を呼ぶことでしょう。悪夢の連鎖がおころうとしています。今のアメリカに自制を求めるのは無理かもしれません。それならば、止めてあげるべきでしょう。日本国民の代表として、首相にはそうした行動を望みたいのですが・・・

自殺

 IT不況がやってきました。関連各社は続々とリストラ案を公表しています。再びリストラブームがやってきたようです。

 リストラが増えると心配されるのが、自殺者の増加。退職を迫られたり、左遷されたり。悩み苦しんだ末に、自ら命を絶つ道を選ぶ。そうした人が増えることが予想されます。

 時々お檀家さんにお話しするのですが、仏教の戒律に「不殺生戒」というものがあります。読んで字のごとく、生きているものを殺すことを戒めるものです。(絶対的な禁止ではなく、例えば、動物を食用に殺す行為については、「必要最低限にしよう」と戒めています)

 人間だけでなく、動物や植物、そのほかあらゆるものに対してこの戒律が適用されるのですが、それは自分以外の存在に対してだけでなく、自分に対しても適用されます。つまり、自殺に対する戒めです。

 自分が自殺すれば必ず誰かが悲しみます。「そんな人はいない」と思う人もいるかもしれません。でも、必ず悲しむ人がいるのです。

 誰かを悲しませることは、してはなりません。だから、自殺をしてはいけません。

 自分が自殺をすれば、必ず誰かが苦しみます。「なぜ私は、あの人の苦しみに気づいてあげられなかったのだろう」その人は、生涯その苦しみを背負い続けるでしょう。

 誰かを苦しませることは、してはなりません。だから、自殺をしてはいけません。

 あなたの周りに、何か悩みを抱えている人はいませんか?面と向かって聞いてみる必要はありません。でも、誰かが苦しんでいないか、いつも気にしていてあげてください。ちょっとした優しさで、救われる人がこの世には大勢いるのです。

 あなたがもし会社の人事担当でしたら、遠回しに退職に追い込むようなことを決してしないでください。それが原因で自殺をする人が必ずいるのですから。

 また、上司からそのように命令されたら、断固拒否してください。

 その結果、あなた自身が退職に追い込まれることになるかもしれません。その時は、そんな会社とはさっさとおさらばしてしまいましょう。もし可能なら、ほかの社員にも真実を告げて、みんなで辞めてしまいましょう。

 不景気のどん底の日本で、いかなる理由があるにせよ、自ら職を失うことは、相当な覚悟が必要です。でも、会社が生き残るために誰かを犠牲にする、そんなことを許容できるとしたら、あなたも十分、会社と同罪です。

 もちろん、会社側が正規の手続きに乗っ取って解雇をし、契約通りの保証をするのであれば話は別ですが。「解雇」という形を嫌って「自主退職」という形に無理に追い込む行為は許されません。

 最後に。

 自殺をしてはいけません。でも、自殺した人を責める必要はありません。問題となるのは「自分自身」なのですから。

風が吹けば桶屋が儲かる

 猫がもう寝てるよ。現在21:19。早すぎだよ。

 失礼。話がそれました。
 始まってないから、それてもないか。

 シロアリさんが出現して大わらわな正太寺ですが、寺務所に出た後、本堂にも進出していることが発覚して、さあ大変です。畳が何枚かやられたため、本堂の畳は歯抜け状態。

 8月に入ると大きな法要もありますので、畳屋さんと大工さん、ともに急ピッチで作業をしてくれてます。ありがたいことです。(大工さん、発見翌日には作業終了。早業でした)

 さて、お盆です。7月にお盆をする地域も多いですが、でもやっぱり、お盆は8月(主観)。甲子園もありますし。「8月」と聞くと、「真夏」という言葉が連想されますね。

 真夏。夏好きの私にはたまらない季節です。

 夏好きといっても、海に行くわけでもなく、山に行くわけでもなく。寒いよりは活動しやすいから夏好きなのですが。そもそも浜名湖に面した山にお寺があるので、わざわざ出かけなくても海にも山にも行って(住んで)たりして。

 ここ何年か、ジェットスキーがはやってますが、ジェットスキーは嫌いです。やかましいから。

 遊びを楽しむのは自由です。でも、それによって苦痛を感じる人がいることを、念頭に置いて楽しみましょう。それが、遊ぶときのルールです。

 何事にも原因があり、結果がある。仏教ではこれを「縁起(エンギ・縁によって起こる)」といいますが、自分の成功には様々な縁が関わっているのだから、自分1人の力と思わずに周りの人にも感謝しましょうとか、自分の今これからする行動が、未来の自分を作る元になるのだから、未来を見据えて行動しましょうだとか、まあいろいろと言うわけです。

 それと同じで、自分が誰かに苦情を言われたら、必ず原因があるわけです。その苦情が的を得たものであるかどうかは今は問題にしませんが、とにかく、原因があるわけです。

 ジェットスキーに乗っていて、近隣住民から「やかましい!」と言われたら、そりゃ、乗っていた自分が悪い。わざわざ人の住んでいるところに来て、「やかましい」と訴えられるほどの音を発しているのですから。

 この辺は誰でも分かっていることでしょう。だったら、苦情を言われる原因を無くしましょう。苦情を言われて気分のいい人はいませんし、苦情を言って気分のいい人もいません(その時一時はスッキリするかもしれませんが)。

 だからといって、他人の顔色をうかがいながら行動しろ、と言ってるわけじゃないです。相手の気持ちを考えてみましょうよ、とお勧めしてるんです。

 うまくまとまったかな?

 実際のところ、ジェットスキーがあまりにやかましいから、なんとかこの気持ちを伝えたいだけだったりして。

 これからこの音が毎日続くと思うと、はあ・・・・

 あれ?猫が起きてる。ちょっと遊んでもらおうかな。

急接近

 小泉首相のメールマガジン、登録してみました。配信は木曜というのでまだ間があります。とりあえずはバックナンバーからチェックかな、と思いとおし読みしました。

 なかなか、これは。おもしろい。

 今までは東京まで行かないとなかなかお目にかかれなかった人たちの、少なくともテレビに映されている時よりも素顔に近い姿が、そこにあります。

 部数200万部近くを誇るこのメールマガジンを、情報操作の目的で使ったら恐ろしいことになるな、と思いつつ、とにかく、単なる読み物としておもしろいのがいいですね。編集長、がんばってるみたいです。

 同じくインターネット上の情報媒体であるWebサイトを管理する身としては、ちょっと嫉妬してみたりして。「正太寺てんぷる」が解説2年余で現在7355カウント。桁がいくつも違うんですよ。メルマガで宣伝してくれないかなぁ・・・

 おっと。ここは(一応)宗教サイトだった。政治とは関われないんだ。残念。

 本当は個人でむちゃくちゃなことを発言できるサイトを作りたいとは思うんですけどね、そしたら維持費は全部自分持ち。無料でHPを開設できるサービスもあるけれど、私のポリシーとして、宣伝とかは載せたくないっていうのもあるもんですからね。

 何書いてんだ。

 まあ、とにかく。
 このメールマガジンは、政治を身近に感じる手段としては今のところ最高の手段ではないでしょうか。政治家を、1人の個人として捉えることが出来ます。人間不思議なもので、1人の個人として捉えられると、興味を持ちやすいんですよ。

 その人に興味を持つと、今度はその人のしていることに興味が出てくる。つまり、政治に興味が出てくるって事です。

 ほのぼのが特徴のこのコーナーで政治の話題はあまり取り上げたくないんですけど、良い物は良い。

 だって、いきなり「らいおんはーとの小泉純一郎です」で始まるんですよ。クスッときました。一国の首相がそんなこと書いちゃうんですから。

 おもしろいです。勧めはしません。でも、おもしろいです。

ポーカーフェイス

 かわいがっていた猫が、行方しれずになりました。一週間が経ち、ご近所からの情報収集の結果、どうやらすでにこの世にはいない模様。

 6年前、彼との出会いは突然でした。

 夏の日の午後。お寺の倉庫から子猫の鳴き声が聞こえます。いつのまにか野良猫が住み着き、子どもを出産したようです。

 親猫一匹、子猫4匹、計5匹。数ヶ月前に飼い猫「タマ」を亡くしていた家族は、全部まとめて面倒見ようと、意欲満々でした。

 しかし、子猫のうち一匹が、どうも元気がありません。兄弟たちと比べても一回り体が小さい。心配していましたが、残念ながら短い命を閉じました。

 残ったのは、虎毛の親猫と、虎毛、茶色の虎毛、三毛の子猫3匹。それぞれ、「トラ」「コトラ」「チャトラ」「ミケ」と安直な名を付け、かわいがっていました。

 兄弟はみなすくすくと育っていきました。

 ある日、兄が居間に飛び込んできました。「子猫が食われた!」

 犯人は発情期の雄猫。雌猫は子どもがいると発情しません。自分の子孫を残すため、子猫を殺して、強引に雌猫を発情させるというわけです。

 自然界では当然のように行われていることなのですが、それでも、目の当たりにするとショックです。

 不幸中の幸いか、子猫たちが雄猫に襲われているのを発見したトラは、コトラを救出することに成功しました。また、そこへいいタイミングで兄が現れたため、雄猫も退散するしかなかったようです。

 チャトラとミケは絶命していましたが、コトラは無傷。

 我々は、コトラを守り通すべく、トラがコトラの元を離れるときは、家の中に入れて保護することにしました。

 トラは頭が良く、コトラがいつもいる場所にいないと、家の中に向かって帰ってきたことを告げます。我々はその声を聞くと、コトラを親元に帰します。猫と人間の協力のもと、不思議な子育てが続きました。

 そのうちに、トラの頭の良さが災い始め、トラは敷地内退去処分となってしまい、コトラだけがお寺に残ることになりました。

 野良同士の戦いに度々傷つき、病院に運ばれることもしばしば。「おまえは深追いしすぎるんだよ」などと会話を交わしながら、6年。 

 コトラがいるのが当たり前の生活でした。家族と同じです。その彼が、とうとうこの世を去ってしまったのです。

 悲しいです。でも、和尚はいつもポーカーフェイス。どんな時でも落ち着いて、冷静に物事を判断しているから、周囲から信頼される。だから、どんなに悲しくてもポーカーフェイス。

 素直に泣いた方が、親しみがわく?

 そうかもしれません。しかし、親しみはわいても、火急の時に信頼されるとは思えません。いつも冷静だからこそ、ここ一番で信頼される。一長一短ありますが、それが私の考えです。

 私はいつもポーカーフェイス。どんな時でもポーカーフェイス。今までも、そして、これからも。

初めてのボランティア

 私の初めてのボランティア。それは、ちょっと規模の大きなクリスマス会でした。
 いや、ホントの初めては、実は他のことなんですが、でもまあ、私の認識上はこれが初めて。

 とにかく、クリスマス会です。ハンディのある人もない人も、みんなで一緒に楽しい会を創ろうという趣旨でした。
 その名も、「みんなでつくるお楽しみ会」。朝から昼下がりまで、およそ5時間程度のビッグイベント?です。

 知的障害の子を持つ親の会と、地元の社会福祉協議会(社協)が共催したイベントなのですが、そんな話はおいといて。

 当日、こんなイベントに参加するのが初めての私は、とても緊張して会場に入りました。そして、現場を仕切る社協のボランティアコーディネーターさんに、「この子と一日、マンツーマンでいて」とだけ、指示されました。
 「この子」とは、知的障害を持つ女の子。

 健康の度合いに程度があるように、障害度合いにも程度があります。一口に知的障害と言っても、その種類は様々です。でも、その子がどんな障害を持っているのか、全く知らされませんでした。つまり、見た目で「女の子」ということが分かるだけで、後は情報ゼロです。

 この情報過多の時代に、まさか情報ゼロの場面に出くわすとは。世の中何が起こるか分かりません。

 と思ったのは後日談で、その時何もかもが初めてのワタクシは、そんなことに気がつくはずもなく、ただ「はーい、分かりましたー」と、脳天気に答えるだけでした。

 指示されたのは「一緒にいて欲しい」ということだけでしたから、つまりは一緒にイベントを楽しめばいいわけです。司会者やスタッフの指示に従いながら、レクリエーションやゲームをしていきます。もちろん、クリスマス的なイベントもあり。

 その間に気になるのは、やっぱり、相手の子が楽しんでくれているかどうか。相手は女の子。私といてつまらなかったと言われては、男が廃ります。そんなことがないように、人見知りする上に口べたなワタクシですが、話しかけたり手を取ったり。

 午後からの後半戦に突入する頃には、幾分親しくなれてきたようです。最初はなんだか警戒されているような感じでしたが、今は大丈夫。いや、私がそう思っているだけかもしれませんが。

 とにかく、何とか仲良くなれて、午後からは歌ったり踊ったり。ワタクシも存分に楽しみました。

 そして閉会。その子のお父さんが会場内まで迎えに現れました。簡単に挨拶を交わし、お礼の言葉を言われて、ちょっと照れます。それが目的ではなくても、でも、「どうもありがとう」と言われればうれしいわけで。はい。

 そのあと、2、3分そのお父さんとお話をしたわけですが、どうやらその女の子は、言葉を発することが出来なかったようです。そういえば、しゃべっているのを聞いた記憶がありません。こちらが何か話しかけても、言葉で返事は帰ってきませんでした。もっぱら、表情と動作が頼りです。

 でも、言葉が無くても、こちらが言っていることは確実に伝わっていたはずだし、その子が言わんとしたことも、たぶん、だいたい理解できていました。

 だから、ワタクシの中では無意識のうちに会話が成立していると捉えていたのでしょう。だって、違和感はなかったんですから。

 うん。だからお父さん。あの子はちゃんと「しゃべって」いましたよ!

 今も私がボランティア活動を続け、主に知的障害の子たちと関わっている理由は、すべてこの時の体験にあるような気がします。

 ボランティアコーディネーターさんのあの、「この子と一日、マンツーマンでいて」と言う一言。あれにもし、「この子、しゃべれないけど・・・」という前置きがついていたら、私はあの子に積極的に言葉をかけなかったでしょう。「話しかけても返事がないんじゃ・・・」先入観というのは、それほどに大きな影響を及ぼします。

 でも、その先入観がなかったから、私は積極的に話しかけられたし、言葉が無くても、会話が出来るということも学べました。とても貴重な体験を、どんぴしゃりのタイミングで経験できたことは、ただただ感謝の念です。

 それから今まで、いろいろなことをしてきました。いくつかのイベントにもスタッフとして関わりました。そのたびに、いろいろと悩むことがあるのですが、思い出すのはいつも、この日のことです。

 頭では理解していても、どうにも取り除けずにいた凝り固まった既成概念を、根底から崩してくれたあの日の出来事。たぶん、一生忘れない、すばらしい一日でした。

思い出

 今の時期、一年で一番好きかもしれません。黄緑色の葉が目に眩しい、自然の生命力を感じる季節。自分も元気になれるような、そんな季節です。

 私には散歩という趣味があります。

 散歩。その名のとおり、ホントに散歩をするだけです。好きなんですよ、ぼけーっとただ歩いてるのが。特に山や田舎の公園をうろつくのが好き。怪しい人に間違えられないかと、変な気を遣ったりもしますが・・・

 中学の時の担任の先生が、HRの時間に学校の近くの公園まで散歩に連れて行ってくれました。クラスのみんなも、教室の中にいるよりも外で遊んでる方が好きなようで、みんなで喜んで出かけた記憶があります。(記憶が正しければ、その先生が担当の国語の時間にも出かけたような・・・)

 とても優しい先生で、一緒に遊んでくれるんですよ。先生って、自分のクラスの生徒からも嫌われたりすることがありますが、あの先生を嫌ってたっていう人はいなかったんじゃないかなぁ。

 思えば、あの頃からかもしれません。訳もなくふらふらと散歩に出かけるようになったのは。まあ、ふつう散歩って、そういうものなんでしょうけど。若い人間の間では珍しいようですよ。

 一年365日の間で、散歩がもっとも楽しいのは、ここ1、2週間でしょう。みなさんもどうですか?休みだからといって家でごろごろせず、どこかに出かけたりせず。たまには家の周りをうろうろするのもいいもんですよー

 (でも都会じゃ出かけないと緑がないかな・・・)

コーヒー

 最近は紅茶よりもコーヒーを飲んでるんだよ
 あの娘の吸う煙草の口の中の残り香と
 にがいコーヒーとの相性がとてもいいから

 Mr.Childrenの「友とコーヒーと嘘と胃袋」という曲にある一節です。

 元々紅茶党のワタクシ、この詩のごとくに、最近コーヒーばかり飲んでいます。たばこを吸う彼女がいたという事実はないんですが、影響されやすいんです。

 思えば、紅茶党になったのも、ある小説に影響を受けたからでした。全部ヤン・ウェンリーのせい。知らない方、ごめんなさい。

 そんなふうに、私は外部から影響を受けやすい。愛用の携帯電話D291iで通話するとき、必ずフリップを開けるとか、Palmとか、VAIOとか。

 女の子がきれいな人にあこがれるように、男の子はかっこいい人にあこがれる分けなんですよ、やっぱ。かわいいもんでしょ。

 まあそういうわけで、最近はコーヒーばかり飲んでます。どんなコーヒーかっていうと、もらい物の粉のヤツ。カップにスプーン一杯入れて、お湯を注いでできあがり。紅茶よりもはるかに簡単(普段でもちゃんとティーポット使って蒸らしているため)。一日3杯ぐらいのペースで飲んでます。

 でもそのうち、また紅茶が良いとか言い出すんだろーな。

 好みは人それぞれ。だから、こういうヤツもいるんです。

 ところであなたは、紅茶派?コーヒー派?

若いね

 先週浜松で開催されたハイキング、というか遠足というか、とにかくそういったボランティアの打ち上げが、昨日行われた。
 その帰り、たまたま同じ湖西から参加していた高校生の男の子(高校生の男を、男の子と表現してしまうところに、自分の年齢を感じてしまう・・・)を車で送っていくことになった。

 ボランティアというのは、年齢も職業もバラバラで、そこが魅力の一つであるのだが、それでも9つも年下の高校生と話をする機会はあまりない。(年上の人と話をする機会は多いね。)

 帰りの車中、だいたい40分ほどであろうか。話していて思ったのはやはり、若い、ということか。ものの考え方や捉え方、別にバカにするわけでもなく、ただやはり、若い。

 こんな頃が自分にもあったのだろうと思うと、無性にその時に帰りたくなった。

 たぶんその頃、私はいろいろな感情を素直に受け入れていた。楽しいときは笑っていたし、悲しいときは泣いていた。

 今はどうだろう。楽しいときには笑うし、悲しいときにはなく。それは変わらない。でも、どんな時でも頭は回転している。常に、何かを考えている。頭を真っ白にして感情に浸る、ということは最近無くなってしまった。

 具体的にとても分かりやすい例を挙げれば、女の子にふられてとても悲しいとき、それでも仕事をするし、笑うし。あの頃はそんな余裕はなかったのに。

 成長した、と表現できるかもしれない。でも、ホントにそうなのかな。
 はっきりとはわからないけど、なんだかちょっとさみしい。

おにごっこ

 今日は隣町の新居町で「わくわくシアター」なるイベントに参加。
 いくつかのボランティアサークルが一つの屋内会場でいろいろな出し物をやったり、参加者と一緒に簡単な劇をやってみたり、という小学生ぐらいまでを対象としたみんなでお楽しみ系のイベントなのですが、私はボランティアサークル「星のたね」の一員として参加。

 今はやりのキャラクターの塗り絵をしてもらって、出来上がった物を割り箸に貼り付けて、それを使って「おおきなカブ」をみんなで上演。なかなか盛況でしたよ。子どもたちも楽しんでくれたみたいで。

 で、そこに来てくれた小学3年生と2年生(たぶん)の女の子4人組が、なぜかおにごっこをやろうとせがんできました。ちょうど参加者の入れ替え時で時間はあったのですが、そんな簡単に持ち場を離れるわけにもいかず。でも、お菓子をくれたりして、どうしても遊んでもらいたそう。

 うーむ。しょうがないので10分だけ、という約束で外へ。公園の中にいくつかの施設が集合している、という場所なので、一歩外へ出れば、もう公園なんです。早速おにごっこを開始。もちろんオニは私です。

 いや、しかし。懐かしい。何年ぶりだろう。ついつい本気で走り回ってしまいました。おかげで明日は筋肉痛かな・・・

 結局誰が一番楽しそうだったか、と言えば、私なのかなぁ。だって、楽しいんだもん。子どもと遊ぶのはもともと好きだし。

 そういえば今週は、浜松に行ってハンディのある子たちとハイキングに行ったりして、遊び回ってたなあ。小さな子を抱きかかえてぐるぐる回したり、肩車をしたり。うん。楽しかった。

 体を思いっきり動かして遊ぶのは、大人も子どもも楽しいもの。おにごっこだって、いいじゃない。

 あ、そうだ。市内全域を使ったおにごっこ、昔やりたかったな。なんとか実現できないかなぁ・・・

 ところで、ボランティアサークル「星のたね」ではただいま会員を募集中。高校生から20代ぐらいまでの比較的若い世代で構成された、何でも屋的ボランティアサークルです。自ら企画して小学生ぐらいまでを対象としたイベントやったりもしてます。

 でも会員が4人(男2、女2)に激減してしまいました。困ってます。誰か助けてー!ボランティアに興味のあるお友達がいたら紹介してくださいませ。もちろん、ご本人でも構いませーん。週一回程度19:00から新居町民センターでミーティングをしています。新居人でなくてもかまいません。私は湖西人ですし。

 興味のある方はmasanori@shotaiji.or.jp(当サイト管理人:穴水)までメールくださーい!ちなみに私が副会長してます。

友達

 お彼岸ですね。お中日ですね。でも、今回の話題には関係なし。
 友達。男友達、女友達。

 異性の友達って、存在すると思います?いや、もっとシビアに、成立すると思います?

 異性の友達って、いいものなんですよ。同姓の友達には見せられない自分を見せられたり。一緒にいると、また違う自分を発見できて。

 「異性の友達なんて、あり得ない。」

 そう主張する人がいたら、私はきっと、「もったいないことしてる」と思うでしょう。友達は、多い方がいい。友達の数だけ、喜びや悲しみがあり、そのぶん、自分が豊かになると思う。

 自分を成長させる栄養剤。異性の友達は、同姓の友達よりも、効果が高いかもしれない。

 もちろん、その時々によるだろうけど。

 私は、異性の友達を否定しない。肯定する、というほどではないかもしれないけど、でも、あっても良いと思っている。

 でもね

 「やっぱり、友達かな・・・」

 そう言われたら、つらいよ。俺だって。

ワカモノヨ

 悩むこと。それは若者の特権である。
 って、誰かが言ってた気がします。かなりあやふやな記憶ですが。まあ、でも。間違ってはないでしょう。

 社会に出ると、悩む暇もなく、次から次へとやることが押し寄せてきます。社会に出る前、すなわち高校生や大学生の間しか、時間を気にせずに悩むことは出来ません。

 だからやっぱり、悩むことは若者の特権でしょう。

 ・・・あのー、社会に出ても25歳ならまだワカモノですよね・・・?

 だからきっと、私はその特権を行使する資格があるはず!でも、時間が足りない・・
 時間が足りなければ作ればいい!仕事辞めれば時間なんていくらでも!

 でも、この仕事はやるとか辞めるとかの問題じゃないしなぁ。そもそも「仕事」とか「職業」などの分類分けに属さないものだし。

 ともかく。悩むことは悪い事じゃない。年がら年中悩んでいるのは困りものだが、たまには前に進む足を休めて、足下を見つめてみることも大切。

 悩むということは、真剣に考えるということ。きっとそれは、自分をより輝かせる原動力になるでしょう。

 そういうわけで、悩むことにします。とりあえず、えーと、欲しい物を買うためのお金の工面について・・・って、おい!

 (いいのかなあ、お寺のサイトなのにこんなオチで・・・)

車の窓から

 車の窓からでなくてもいいんです。電車の窓からでも。
 今日、車の窓から外の景色を眺めていると、自分の乗っている車の陰が映っているのが見えました。
 歩道の段差、垣根、塀。車の陰はそれらの形に合わせて、自由自在に形を変えていきます。

 人間がCGを使って表現しようとしたら、コンピューターに膨大な量の処理をさせなければなりませんが、陰はそれを当然のこととしてこなしてしまいます。

 すごいですよね。やっぱり、すごいですよね。

自己犠牲

 「自己犠牲」
 良い響きです。誰かのために、自らを犠牲にする。一般的に、良いこととされています。もちろん、仏教でも。
 でも、最近考えさせられることがありました。

 誰かのために自分を犠牲にする。でもその時、自分の信念までも放棄しなければならなかったとしたら。
 自らの信念により、自ら禁じている行為を、誰かのためにしなければならないとしたら。

 自己犠牲と信念と。はたしてどちらを取るべきか。

 自己犠牲を取ったとしよう。そうすると、「自己犠牲」という言葉を、禁を犯した言い訳にしてしまわないだろうか。
 信念を取ったとしよう。そうすると、自分のために他人を見捨てたということになりはしないだろうか。

 あなたならどうします?
 私は・・・

時の流れ

 新年あけましておめでとうございます。いよいよ21世紀がやってきました。
 21世紀がやってきたといっても、和暦にしてしまえば平成13年。昨年から1年経っただけです。でもまあ、そう言わずに・・・時の流れというものを実感するのに、世紀の変わり目というのはちょうどいいのです。

 私が子どもの頃、21世紀など、まだまだ遠い未来の話だと思っていました。このサイトを訪れてくださる方々の多くも、同じように感じていたことと思います。しかし、現実に21世紀はやってきました。時は確実に流れています。

 今この一瞬というものは、その一瞬しか存在しません。さっき自分がいたはずであるその時は、すでに過去のもの。二度と戻っては来ません。

 そうした考えのもと、「今現在が最も大切だ。だから今、やりたいことをやるんだ」という思想が蔓延しています。しかし、それはあまりにも短絡的な考え方です。今この一瞬は、過去の出来事に基づいています。自分が今ここに生きているのは、元はといえば両親が自分を生んでくれたから。それ以前に、両親が出会ったから。両親が生まれたから・・・。

 そこまでさかのぼらなくても、自分が今の職業に就いているのにも、何かしらの過去の原因・理由があるでしょう。他にも、今の自分を構成しているものは、過去に大きく依存しているはずです。

 過去があって、今があるのです。

 そして未来は、今を基に築かれます。過去があるから今があり、今があるから未来があるのです。

 確かに「今」はとても大切です。我々が生きることが出来るのは、「今」この一瞬しかないのですから。しかし「今」は、未来を築く要因でもあります。

 「今」が大切だから、やりたいことをやるのではなく、より良い「未来」のために、「今」を大切にするべきでしょう。

 ちょっとした視点の違い。でも、たったこれだけで、ずいぶん前向きに「今」というものを大切に感じることが出来ると思います。より良い未来のために、今をもっともっと大切にしていきましょう。

コラム 2000年

世界の中心

 「世界はおれを中心に回っている」
 時々そう言い放つことがあります。
 もちろん、たぶんに誤解を生む表現なので、目上の人間に対していうことはないですが。

 べつに、傲慢なわけでも何でもなく、あえていうなら、自分に対する戒め、でしょうか。

 世の中はすべて、原因と結果の連鎖で成り立っています。

 車の運転中、よそ見をしたからぶつかった。
 人の悪口を言っていたら、自分の評判が悪くなった。
 等々

 もちろん、連鎖ですから、結果が新たな原因となります。

 車でぶつかってけがをして入院したら、看護婦さんと仲良くなった。

 ということもあり得るわけで、どんな原因も、どんな結果も、それがはたして良いことか悪いことかなどという、人間的な要素はありません。

 そんな難しいことはさておいて。

 自分が何かすることによって、新たに何かが起こる。そういう意味で、世界は自分を中心に回っている、というのです。
 もちろん、何もしなくても、どんどん新しいことは起こりますが。

 だからこそ。

 世界を自分で回すべく、行動を起こせ。
 そうやって、自分に言い聞かせるわけです。

 まあ、そんなこと、自分の心の中で思っておけばいいわけなんですが、人前でそういうと、いっそう効果的だったりするもんですからね。

リラックス〜

 お気に入りの音楽を聴いて
 リラックス、リラックス
 いろんな人とおしゃべりして
 リラックス、リラックス

 大好きな愛車を駆って
 リラックス、リラックス

 大きな空に包まれて
 リラックス、リラックス

 やることいっぱいあるけれど
 リラックス、リラックス

 肩の力を抜いて、今日もほえほえ
 リラックス、リラックス

人間観察

 「人間は弱い生き物だ」
 誰かが、すべてを悟ったように言っていた。ホントにそうなのかな?

 道行く人々を眺めていると、ふと思う。

 「この人たちみんな、弱いのかな」

 みんながみんな弱いのなら、じゃあ、みんなから「あいつは強い」っていわれる「あいつ」はなんなんだろう。

 「あいつ」だけは特別なのか? 「あいつ」も弱いのか?

 「あいつ」も弱い人間だけど、がんばって強くなってるのかな。

 「私」もがんばれば強くなれるのかな? だって、みんな弱いのに、がんばって強くなってるんでしょ?

 でも、どうやってがんばればいいんだろう。

 「強い」って、どういうことなんだろう。

 「弱い私」には、「強い私」が想像できない。「私」も「あいつ」みたいに強くなれるのかな。

 なれるのかな。

 なれるのかな。

 なれる、よね?

 ただ、前へ 前へ。

 休憩しながらね・・・・

 以前にも「ひとりごと」で書いたような気がしますが、私は空を見上げるのが好きです。
 それも、ただ見上げるのではなく、地面にねっころがって見るのがとても好きです。もう、好きと言うよりも、愛してるという感じに。

 久しぶりに今日、ねっころがりましたよ。

 某市文化センターにおいて、今日・明日とお寺関係のイベントがあるのですが、私は駐車場係にあたってるんです。

 駐車場係と言っても、来場者が全員来てしまえばやることもないわけで、中でなにやってるかなんてなんにも気にせずに、持ち場でボケーとしてましてた。

 で、ふとねころがったわけです。ねっころがると当然真正面に空がくるわけです。

 「あっ、久しぶり。おお、空がまぶしい」

 天気は晴れ時々曇り。そのときは曇っていたのですが、久しぶりに見上げた空はとてもまぶしく。

 瞬間、自分がとってもちっぽけに感じられます。また、抱え込んでる悩みや問題ごとも、ちっぽけなことに感じられます。

 実際、大したことじゃないんですよね。直面するとどうしようかと思いますが、一歩距離を置いて考えてみると、そんなに問題じゃない。生死に直結するような問題には、なかなかお目にかかりません。幸い、健康面で異常はありませんし。

 あっ、でも口内炎がしばらく治らない。うむむ。

 駐車場でねっころがってるわけですから、端から見たらかなり滑稽な情景だったかもしれませんが、いい気分転換になりました。

 あしたも駐車場係だし。またねっころがろうかなぁ

毒舌

 よく言われるんです。おまえは毒舌だって。
 自分ではおもしろいと思って言ったことが、毒舌ととらえられたり、つまんないと思われたり。
 まあ、ね。つまんないと思うのはいいでしょう。感性は人それぞれですから。

 で・も・ね。毒舌って言うのはどうかと。もちろん、自分でも「こりゃぁ毒舌だったな」と思うこともありますよ。
 しかしながら私といたしましては、その場の雰囲気を盛り上げようとがんばっている訳なんですよ。
 むくわれないなぁ・・・

 などと思っておりましたら、新発見。
 地元住民の方と話をしてると、私の発言を結構楽しんでくださる。

 つっこみがつっこみとして機能する楽しい瞬間。

 ここで私、一つ気がつきました。

 私の地元、入出は漁師町。村なんですけど、一応、漁師町。
 漁師町といえば口が悪い。とっても悪い。
 私の地元など、語尾が「ばかやろー」なんですから。

 どこかの町で、入出人同士で世間話をしていたら、周りの人にけんかをしていると勘違いされて仲裁に入られた、などという伝説もあるぐらいです。

 そう。そうなんです。そういう中では、特に漁師の家に生まれ育った人間にとっては、私の毒舌っぷりなど、お上品な言葉にしか聞こえないんです。

 そんな人間がちょっときついことを言ってみれば、なかなかおもしろいものなんです。

 そうなんですよ。だから、わたしは毒舌ではないんです。おわかり?諸君。
 って、これを伝えたいのはたぶんこのページを見ていない人たちばかり。
 残念。今度直に力説しよう。

秋ですね〜

 涼しくなりました。寒がりの私は、夜になると寒いぐらいに感じてます。
 寒くなってくると、夜景がきれいになります。なんでも、湿度の関係だそうで。湿度が低いと、遠くの景色がくっきり見えるようになるそうで。

 まだ秋ですが、正太寺から見える夜景はきれいです。眼下に浜名湖を臨みつつ、対岸の家々が光を放つ。

 お酒を飲みながら悲しいことを思い出せば、自然と涙がこぼれるくらい。

 この景色にはずいぶんと助けられました。つらいこと、悲しいこと。なにかあると、ぼーっと眺めていたものです。そうしていると、不思議なくらい勇気づけられて、次の一歩が踏み出せます。

 今のところ、私の最高の宝物。

 これからもきっと、最高の宝物。

 でもホントは、おんなのこに助けてもらいたかったりして。

お彼岸に思う

 昨日はお彼岸のお中日でした。でも、大雨だったためお参りに来る方は少なかったです。そのかわり、本日、日曜日ということもあって、朝からすごい人出です(当社比)。
 こういう様をみていると、日本人というのはほんとに不思議な民族だと思います。普段はお寺に大して関心もないのに要所要所でちゃんとお墓参りに見えられる。

 ホント不思議です。普段は仏教なんて年寄りのものだと思っている若い人たちも、家族と一緒にお墓参りに来て、ご先祖様に手を合わせていく。

 最近では、若い世代のほうが宗教に対する関心が高いというケースもあるようですね。オーム真理教(アレフに改称)などは、いい例ではないでしょうか。彼らの大半は、「若者」と呼ばれる世代の人間です。近年薄れかけていた宗教に対する関心が、高まってきていることは事実のようです(いい意味でも悪い意味でも)。

 なにかと悩みやストレスの多い世の中、われわれ僧侶にできることは山のようにあるはずですが、残念ながら、いまの我々にはそれに対して的確に対処する能力が欠けているようです。

 何かに救いを求めたいと思う人も多いはず。もちろん、そんなものを必要としない人もいるでしょうが、人間というのはやはり、弱い生き物です。そうした人々に対して教えを示すべき我々僧侶は今、世襲でしかその教えを維持できない状況にあります。これは、僧侶を目指す人が少ないのではなく、目指すだけの魅力がないと思われているからでしょう。

 小学校の卒業文集に、「将来の夢」というページがありました。「プロ野球選手」とか、「スチュワーデス」とか書いた、アレです。少し将来のことを考え始めた子どもたちに、「お坊さんになりたい?」と聞いたら、「いや」と言われるでしょうね。

 いつの日か、「プロ野球選手」「スチュワーデス」にならんで「お坊さん」という文字を見つけられる日が来るよう、僧侶というものを魅力的なものにしよう。

 そう思わずにはいられない、日曜の午後です。

ことば

 ことば。それは人が創ったもの。そう。しょせん人が創ったもの。
 ことばというのは、それと他とを区別することで成り立っている。「赤」と表現したとき、そこには必ず「赤でないもの」が表現される。「赤でないもの」がなければ、「赤」はあり得ないからである。

 あなたが「人間」とか、「人」とか言うとき、頭のどこかで、「人間」と「人間以外のもの」とを区別してはいないだろうか?
 区別しているはずである。そうでなければ、「人間」を表現することは出来ないのだから。

 ことばは常に区別する。

 仏教は常に区別しない。自と他を区別しない。それゆえ、自分のためでもなく、人のためでもなく生きられる。他人は自分であり、自分は他人である。あの草も、この猫も。鳥も、太陽も。

 分からない? 当然である。区別なしには存在し得ない「ことば」で、区別のない世界は表現し得ない。

 「ことば」の限界。それゆえ、釈尊(お釈迦様)は、ことばによる表現にこだわらなかった。その結果、ある人には正しくとも、ある人には正しくない教えが存在しているのである。そして、膨大な量の教典が残された。

 釈尊の伝えようとした真理はただひとつ。しかし、何かを表現したその瞬間、その何か以外のものが常に存在してしまう「ことば」では、ただひとつの真理は表現し得ない。

 釈尊が滅しておよそ2500年、脈々と受け継がれるその教え。人間は未だに、真理を表現するすべを持たない。鉄のかたまりは空を飛び、ついに宇宙にまで到達したというのに。

 大事なことを、忘れている気がする。なにか、とても大事な。

17才

 物まねが得意な友人Kが、自分がキレた時のことを話してた。彼曰く、
「全然記憶にないんですよ。」

 私はまだ、そんなふうにキレたことはない。どんなに怒りを覚えても、どんなに冷たい言葉を浴びせても、どこかに、先の展開を冷静に考えている自分がいた。

 私はまだ、キレるということを体験していないのだろうか?

 最近、17才が注目されている。キレやすく、すぐ人を傷け、殺める。
 でも、ちょっと待ってくれ。彼らは、自分のキレた時をちゃんと覚えている。それは、キレてはいないんじゃないか?

 私と同じ状態。どんなに我を忘れそうになっていても、どこかで次のことを考えている。冷静に。おそらく、普段とは比べものにならないほど冷静に。

 では、17才の彼らは、冷静に、人を殺めたのではなかろうか?

 もちろん、真実は本人にしか分からないし、私のような性格の人間は、特殊なのかもしれない。でも、人間はしょせん人間。だれもかれも、大差無いはずなのだ。

 Kは続けて言う。

「めちゃめちゃいかりながら、ダチョウ倶楽部の上島の真似してたらしいんですよね」

 人がキレたときは、その人の本質が垣間見えるのかもしれない。だったらきっと、キレた人は、他人を殺めたりしない。

使える使えない

 人を「使える人」と「使えない人」と区別するとき、ありますよね?
 でも、「使える使えない」というのは、あくまでも主観なんです。客観ではないのです。人を評価するときは、とことん客観的なものの見方をする必要があるでしょう。そうでなければ、自分の価値観が全てを決することになってしまいます。一個人の価値観でのみ人を評価するなど、あってはならないことです。

 「あいつは使えないヤツだ」などと、軽く口にするのは、「自分は客観的なものの見方の出来ない自分勝手な人間です」と言っているようなものです。お気をつけあそばせ。

無煙線香って・・・

 お盆ですね。お寺は、お盆になるととても忙しくなります。そう、ホームページの更新をしてる場合じゃないほどに。
 ではなぜ更新したのかって?どうしても書きたいネタがあったからですぅ。

 世の中には無煙線香というものがあるそうで。字の通り、煙が出ないんだそうです。
 ところで、線香ってなんでしょう。線香は、(仏教的には)その煙と香りでその場を清めるものです。線香を立てると、何となく雰囲気が変わるでしょう?それには、線香の出す煙と香りが大きく影響しているのです。

 つまり、煙のない線香なんて、線香に非ず。確かに、煙くないのはいいかもしれません。でも、それでは意味がないー、のです。たばこじゃないんですから、そこまで煙を嫌わなくてもいいんじゃないかと。

 で、もしも仏具屋さんなどで、この線香、煙が出ないんですよー、煙くないんですよー、おすすめですよー。と言われたら。
 仏具屋さんの本業は商売です。私の本業は僧侶です。あなたなら、どちらを信じます?

 さらにもしも。近所のお坊さんに同じように勧められたら。仏教がこの世にあらわれて2500年。いつ線香というものが登場したのか分かりませんが、線香出現以来変わらずに用いられてきたのには訳があるのです。その点を聞いてみてください。

 「今まで長い間(何百年単位?)煙の出る線香を使ってきたのに、その煙にはなんの意味もなかったのですか?」

あっ・・・・

 よく見たら、前回のひとりごとは大分前なんですね。やばっ。なんだか妙に忙しくて。しばらくはこの忙しさが続きそうです。
 今朝、テントウムシを見ました。前に書いたかたつむりも久しぶりでしたが、テントウムシも久しぶりです。2年ぶりぐらいでしょうか。いったいどんな生活してたらこんなふうになるんでしょうか。ここ数年、前しか見てなかったからなぁ・・・

 子供の頃、テントウムシの進行方向に、手を広げておいておくと、テントウムシがのぼってきたりしたんですが、今日やってみたら、無視されました。あれれ。手が大きくなったせいなのでしょうか。たわむれたいのに。

 こしょこしょして、くすぐったくて。

 昨日、映画「アイ・ラブ・ユー」を見ました。日本初のろう者女優主演作品だそうです。そんな触れ込みはともかく、いい映画でした。

 映画をちゃんと見たのは10年ぶりぐらいでしょうか。(といっても、映画館じゃないんですけどね。隣町の町民センター。)
 最後に見たのはドン松五郎の大冒険だったかな。

 なんにしても、いい映画でした。いわゆる、障害者についてもっとよく知ってもらおうというたぐいに大別される作品だと思うのですが、それを抜きにして、純粋に映画として楽しめました。ハリウッドのアクション映画よりも私好み。

 あらすじを書くという作業はどうも苦手な分野のようなのでストーリーについては一切触れません。ご近所で上映される機会があったら是非ご覧ください。(これは障害者福祉に関わるボランティア的な発言かなぁ)

 では、一個人として感想を。「気持ちよく泣けます」

信念

 「出来るか出来ないか ではなく やるかやらないか」
 私の信念です。

 何かしらの計画を実行しようとする時。
 綿密な調査は重要である。

 しかし、事前段階における調査の結果、計画の実現は不可能と判断されても、とりあえず一歩踏み出してみる。

 何かしらの計画を実行しようとする時。
 その成功・失敗に関わらず、自分自身が納得できるかどうかの別れ目は、そこにあると思う。

 私は、失敗が恐い。後悔することが恐い。だが、そのために一歩を踏み出せない人間ではありたくない。

 とりあえず、目の前に、ボランティアとして運営に関わる福祉事業(別名・夏のバカ騒ぎ)がある。
 自分の信念を貫くことが出来るか否か。今年も試してみようと思う。

 ちなみに昨年は・・・60点ぐらいかなぁ。(事業自体はかなりの高得点でしたが)

 注:やるかやられるか ではありません

かたつむり

 雨上がり。かたつむり発見。何年ぶりでしょ。かたつむり見るの。
 やばいですね。かたつむりにも気付かないような時間を過ごしていたなんて。もったいない。

 久しぶりに見るかたつむりは、角をつつけばみょいっとちぢまる、昔通りのかたつむりでした。でもちょっと農薬に強くなってるかも。

 かたつむりって、ぜったいなめくじに殻がついただけだと思う。真剣に。

 ・・・

 などと、現実世界に浸っていたら、仮想世界がどうのこうのという話が耳に。

 先日のバスジャック事件。あの少年は、インターネット上の掲示板において、自分の本性をさらしていたそうで。

 そんな関連の話題をテレビでやってました。その話題の中での識者が言うには。現実の世界ではいえないことでも、仮想世界であるインターネットの中では、気弱な人でも、何でも言えるんですって。

 根本的に間違ってますね。小耳に挟んだところでは、日本のインターネット人口は2000万人を突破したらしいです。ほんまかいなと思いますが。聞き間違いかな? 日本人の6人に1人はインターネットを使ってることになります。

 そう考えれば、インターネットも立派な現実世界です。もちろん、そんなことを言うまでもなく、電子上のやりとりであるというだけで、間違いなくインターネットは現実世界です。

 世の中まだまだ認識不足なのではないでしょうか。情報教育などというのであれば、まず、インターネットは現実世界の一部である、という大前提を教えなければなりません。

 ところで、それらを教えるのは誰なのか? ・・・学校の先生? ちがうでしょう。インターネットは極日常に存在するものになりつつあります。テレビに近づきつつあのです。

 テレビの使い方を学校の先生が教えるでしょうか・・・?

 また、インターネットはコミュニケーションの手段でもあります。掲示板もコミュニケーションの手段ですよね?

 コミュニケーションは、つまり人との関わり合いです。人との関わり方を、学校の先生がいちいち教えるでしょうか?少なくとも私の時はそんなことありませんでしたよ。
 子供は周りの大人を見て育ちます。大人が見本を見せるのがまず一番でしょう。

 ・・・

 せっかくほのぼのと切り出したのに、なんだかうだうだとしてしまいました。ああ、世の中なんでこんな事件ばかり続くのでしょうか。

 もっとほのぼのとした世の中にするために、我々僧侶に出来ることはたくさんあるはず。お釈迦様はほのぼのとした世の中が好きだったはずですから、その教えに従っていればきっと・・・。まだまだ精進が必要です。文章も中途半端だし。久しぶりに書いたら、たったこれだけに一時間近くかかりましたよぉ・・・

 (ちょっとは宗教色出ましたでしょうか。)

解析 なぜ「正太寺てんぷる」の更新は遅いのか

 管理者の行動パターン解析
・平日
最近は地元社協でいろいろとお手伝い。サラリーマンのような生活です。
仕事内容は情報技術系(それほど大げさでなし)なため、家に帰ってきてまでパソコンに向かう気力が起きません。
・土・日等
平日なんちゃってサラリーマンをやっているため、お寺の情報機器のメンテナンスは土日に集中します。
なぜかファイルサーバーが立ち上がっていたりと、規模不相応なシステムを運用中。
それだけならメンテはほとんどいらないのですが、DNSを自前で立ち上げたり、OSを入れ替えたり、ハードディスクを増強したり、それに伴いまたOSを更新したりと、ずいぶん無駄をしているため時間がどんどん無くなります。
もちろん、本職の法事等を師匠から任されれば、前日からそのことで頭はいっぱい。事後は緊張疲れで使い物にはなりません。
・たまの休日(お寺に休日はないです。たまに何にもない日があると、朝起きて、「ああ、今日休日だ」と思う程度)
たまの休日です。なにもしません。 <--をいをい。
 こうやって生活していると、ホームページの更新している時間なんか無かったりして。ただ、妙に気力の充実した日があったりすると更新する気がメラメラと。もしくは、もうなんにも考えたくない、というときは、指が勝手に動いてひとりごと書いたりしてます。
 しかぁーし、何を隠そうこの「正太寺てんぷる」は、正太寺の公式ページである。やっぱりまめに更新しなくちゃダメでしょ。と、書きながら改めて認識したりもして。めちゃめちゃ忙しく働きながらホームページもバンバン更新しているパワフルな方もこの世にはいっぱいいますし。負けてられませーん。

 でも、霊場記、全然進みません。長期にわたるパソコン歴のために視力がやられ、結果、集中力をそがれることが多々。でもでも(反復)、最近なんだか調子いいので、気合い入れて書きますよぉ。完結するまで待っててくださいませ。

 P.S. かぜ、まだ治ってません

エンドレス

 かぜ、ひきました。
 今月の第3週からです。忙しさにかまけてしっかり直さないためか、治ったと思ってもすぐに復活してきます。リベンジってやつですね。もう三回目。

 今回は、先週の土曜日にリベンジが開始されました。三ヶ日の某御寺院の某副住職さんの披露宴に出席している最中のこと。ふと気がつくと、のどが痛い。

 そのまま2次会に出席している最中のこと。ふときがつくと頭がボーっとしている。

 んでもって、3次会。言葉少なになってました。ああ、ちゃんとお祝いできていただろうか。

 日は変わり日曜日。都合により東京へ。去年あたりにお医者でもらった頓服薬を飲みながら。帰ってきて今度は食事に。事情によりキャンセルききません。またしても頓服薬を飲みながら。珍しくムリしてます。

 そして迎えた月曜日。体の弱い私は朝からダウン。夜までダウン。この日はツイてなかった、いろいろと。

 火曜日になって熱は多少引くものの薬は必須の状態。にもかかわらず、やることは目白押し。夜は何を血迷ったか名古屋へGo。

 ようやく本日です。薬がまだ必要です。ここでこうして文章を綴っていても、思考力が不足してます。構成をする気力もなし。久しぶりに脳味噌丸出しの文章です。<--普段と大差ないかも・・・

 とにもかくにも。風邪を引いたら、さっさと休養をとってテキパキ治してしまいましょう。リベンジ食らわないように。風邪は万病の元、といいますからね。<--おまえがさっさと治せ。

 だれか、私の風邪もらってください。そしたらきっと、すっきりなおるぅ。


和尚的プラス思考法 その1

 車を運転していてやたらと赤信号に引っかかったとき 青信号ですいすいと進んだら、この先でトラックにぶつけられるのかもしれない。赤信号のおかげでそのトラックに会わなくてすんだのかもしれない。赤信号に感謝感謝。
 でも、根本的解決にはなりません。

「運が悪いものは運が悪い。そのうちいいことあるさ。」

 と思えるようになればしめたもの。いい方向に物事をとらえていけば、状況は好転します。もし好転しなくても、信じて突き進むこと。そういう人は、見ていてかっこいいから。

 いいんじゃないんでしょうか? それで十分。

あーめーあーがーりー

 雨降りましたね(静岡県西部地方)
 雨上がりましたね(静岡県西部地方)

 雨が上がったので車で出かけてみました。

 出かけたと言っても、近くのお店に買い物に行っただけなんですが。

 それはともかく。

 車を止めて道路の端を見ると、緑色のものがにょきにょきと。草が生えてきてます。

 反対の端を見ると、やっぱり草が生えてきてます。

 つい先日までは枯れた草があったところに、今日は新しい芽が出てきてる。

 春ですね。ちょっと感動。

 いよいよ本格的に暖かくなっていくのでしょう。私は寒い季節よりも暑い季節がすきです。

 故に、冬から春に変わるのがとても楽しみ。

 はやく桜が咲かないものか。

 正太寺のある宇津山では、桜より早くツツジが咲きます。3月下旬頃が見頃。

 ちょうどそのころ桜も咲き始め、一年で一番、宇津山が美しくなります。

 何もないところですが、その分、自然が美しい。どんなもんだい。

 4月2日、花祭り。湖西市入出の一番奥です。道に迷えば着くところ。

 そんな不思議な正太寺。是非一度。

著作権

 友人(といっても、もう何年も会っていませんが)のホームページ「大阪シリカゲル」を久しぶりに、ほんとに久しぶりに(スマン)見に行ったら、フリーソフトウェアの著作権について、ちょっとやばいことになっていることを知りました。

 まずは著作権情報センター(CRIC)のここを読んでください。お怒りを感じたならば、こちら(LinuxJapan)やこちら(KondaraProject)へ。

 簡単に説明するならば、フリーソフトウェアというのは、無償で公開された、ある個人・団体の著作物です。その利用に際して、著作者は対価の支払いを強制しません(カンパを募ったりしているものはあります。)。また、著作権を保持しています。

 しかし、上記CRICホームページでは、以上のことが歪められて表記されています。それはないんじゃないか?というような表現ですね。最初と最後はあっているんですが、その結論に至る経過が無茶苦茶です。フリーソフトウェアに対し、悪意を持つ人物が書いているんじゃないかと思えます。

 個人のホームページで、ある情報について誤った解釈を載せている、というのであれば大した問題ではないのです。それはよくあることでしょうし。しかし、CRICはその筋では権威的な機関ですし、問題の箇所を書いた方も、その分野では権威ある方だということです。(私はよく知りませんので、あやふやな表現です。すいません)

 権威を持った機関が載せている情報というのは、ほかの場所で入手したものよりも信用される可能性が大幅に高まります。日本人はとかく権威というものに弱いと言われてますし。故に、これは大問題であるといえるでしょう。

 CRICのページにある解釈は誤解を招くのに十分なもの。早急に訂正していただきたいものです。

石油ファンヒーター

 世の中どんどん進化しているもので、最近の石油ファンヒーターは灯油の残量がおおよそ把握できるようになっています。
 私の使用しているファンヒーターでは、灯油の残量を3つのランプの点灯具合で表示するようになっていて、3つ全て点灯していれば満タンから3.5リットルの間、2つ点灯していれば3.5リットルから2リットルの間、1つしか点灯していなければ2リットル以下であることを教えてくれます。

 この油量モニター(私のファンヒーターでは上記の装置をこう表現しているので、以下ではこのように表記します。)があるおかげで、私のファンヒーターの利用形態が随分と変わりました。

 私は人に自慢できるほどの寒がりなので、寒いときはちゅうちょ無くファンヒーターの力を拝借していました。しかし、スイッチを入れる前に油量モニターを確認し、灯油の残りが少なくなっていることに気がつくと、本当に今、その力を必要とするほど寒いのかを考えるようになりました。なぜなら、灯油が無くなったら補充しなければならないからです。

 私はめんどくさがり屋の合理主義者です。今の寒さと、灯油を補充するという面倒な行為を比較し、中期的な視点からもっとも合理的な結論を出します。これにより、今まで寒いと感じたら無条件でファンヒーターに頼っていたものが、ある程度の寒さまでは耐えるようになりました。

 カンタンに表現すれば、ファンヒーターを利用する機会が減ったということです。それはつまり、灯油の消費量が減少したことを意味し、石油資源の節約をしていることになります。

 油量モニターがファンヒーターに搭載されることによって、めんどくさがり屋という私の短所的性格が、石油資源の節約に貢献することになったのです。これはすごいことです。人間の短所を、長所に変えてしまうのですから。これで私もエコロジストの仲間入り!

 ただし、欠点が一つ。油量モニターは灯油がたくさん入っているという保証もしてくれるため、その場合には今まで以上に短絡的にファンヒーターに火を灯すようになってしまったこと・・・プラスマイナス0か?

コラム 1999年


いつもそこにあるもの

 とある理由で、目覚まし時計の位置が変わりました。今まではテレビの上に置いてあったのですが、テーブルの上に移動しました。  この目覚まし時計、私の部屋にある唯一のアナログ時計で、時間を確認するときは常にこの時計を見ていました。
 時計の場所が変わったら、大変なことになりました。時間を確認するときに、まず、テレビの上に視線が動くのです。頭ではもうテレビの上ではなくて、テーブルの上に移動したとわかっていても、つい、視線がそこに行くのです。

 何回も同じことをやって目が疲れたので、時計は元のテレビの上に戻しました。そしたら、気分も落ち着いた・・・

 そこにあるものがない。これはすごく大変なことですね。今まで当然のようにそこにあったものがある日突然なくなる。目覚まし時計ぐらいならいいですけどね、、、怖いです。気をつけましょ。

ダブルブッキング

 ふとした油断からダブルブッキングしてしまいました。ダブルブッキングとは、同じ日同じ時間に、二つの予定を入れてしまうことです。ダブルブッキングが起こってしまった場合にどちらの予定を優先すべきかという問題は、大変難しいものです(問題の時間になって初めてダブルブッキングに気づいた場合は、もっと深刻ですが)。

 こういった事態を防ぐために、電子手帳を常時携帯し、常に予定を確認して行動しているのですが・・・

 ボランティアで参加しているあるイベントのスタッフミーティング中に、予定の確認をせずに、イベント当日の午後の部の担当者となりました。

 ところがそのイベント当日の午後というのは、ちょうど我が寺院の行持(いわゆるイベント)と重なっているのです。前述のイベントのスタッフを引き受けた時点で、この時間帯はお寺の行持があるということは認識しており、この時間にはイベントから抜け出します、と断っていたのですが、実際に担当を決める時点ですっかり忘れてました。

 さあ、こうした場合、どちらを優先するべきか。言うまでもなく、お寺の行持は私の本業。無条件で優先する義務があります。(僧侶という立場を職業として捉えるた場合。本来であれば、本業、副業などと言う区別はないのですが、主旨からはずれるので追求しません)

 しかし、イベントのスタッフとしての責任も相当なものがあります。今回の場合、担当者には、与えられた時間帯の企画・運営に関して、ほぼすべての権限が与えられています。権利と責任が比例するのは当然のこと。担当者は複数人いるとはいえ、一度引き受けた以上、当日の運営に関わらないわけにはいきません。あきらかに他人に迷惑をかけるわけですし。

 また、ボランティアというのは、個人個人の自発的意志によって行われることであり、そういった考え方が基本であり、すべてであると私は捉えています。ボランティアのイベントスタッフというのも、会社のように雇用契約というものは存在せず、自発的意志によって人が集まり、対等の立場で共同作業をしていきます。ボランティアとボランティアをつないでいるものとは、信頼関係以外の何者でもありません。

 そういった状況では、信頼を損なうというのは致命的です。こうして考えるてみると、イベントスタッフとしての仕事も、優先したいと考えるに十分な理由があります。

 ではどうするか。いろいろ考えた末、キャンセルした場合、誰に迷惑をかけるかということに考察の焦点を絞ることにしました。

お寺の行持をキャンセルした場合
私の役割は主に、その場にいて住職と共に読経すること。行持の進行は住職によって行われる。
つまり、私がいなくても行持の進行自体に影響はない。
誰に迷惑をかけるかと言えば、住職以外に思い当たらない。
ただし、事前の準備等には、人手が足りない、という影響を与える。
これは、住職以外にも適用される。
が、このことは事前に了解済みである。
イベント当日、自分の担当時間帯に抜け出した場合
現段階では、私の役割はそれほど重要ではなく、代理も容易である。
しかし、これはほかのボランティアスタッフの負担を増加させることに他ならない。     
 まとめてみましょう。1の場合、迷惑をかけるのは住職です。私の場合、住職は父です。つまり、血縁関係にあります。では2の場合はどうでしょう。迷惑をかけるのは、他のボランティアスタッフ。もちろん血縁関係はありません。あるのは信頼関係のみ。

 以上のような考察の結果、私はイベントスタッフしての責務を優先することにしました。お寺の行持については、平謝りです。私のことを孫のように思ってくださっているお檀家のおばあちゃんたちには申し訳ないのですが・・・(わたしの衣姿を喜んでくださるんです。ありがたいことです。)

 さて、私の場合は血縁関係は崩壊しにくいという特徴を信じて、崩れやすい信頼関係というものの保持・向上を図ることにしました。みなさんならどうしますか?私の出した結論は、いざというときの言い訳にもなる、なかなかいいものだと思うのですが。いかがでしょうか。

 ・・・夜、目が冴えて寝付けなかったとき、妙に思考が活発になりまして、そのときに考えていたことを眠り薬代わりにと書いてみました。こういう遊びもなかなか、おもしろい。

・・・

 先日、まだ20代前半の方のお葬式をしました。 数人の方が弔辞を述べられまして、親族の方々は泣き崩れていました。
 なぜ・・・?なぜ人には死というものがあるのか。いや、あるにしても、なぜ、せめて、親より先に逝くなどということは・・・

 いくらなんでも。
 死はあらゆる生命に対して平等に訪れます。しかし、その順番はけして平等ではありません。

 あるものは両親を見送り、子供たちに見送られ、安らかに眠りにつく。
 しかし、本来自分が見送るべき両親に見送られることもある。
 誰に対しても死は突然訪れる。そう表現すれば、確かに死は平等でしょう。でも、悲しみは・・・

 やはり、若ければ若いほど。それから送るはずだった人生が長ければ長いほど。
 私は僧侶です。死についても、ある程度の宗教的解釈も持っていますし、時としてそれを人に諭しもします。でも、やはり、目の前にある死は、つらい。血がつながっていようがいまいが。多くの人がそうであるように。

 死があればこそ、今の生が、生きているというこの瞬間が、より輝く。誰かがこんなことを言っていました。
 たしかに、死があってこその生。我々が生きていく過程でも、多くの命が失われ、その命に支えられている。
 人は、死に対してあまりに無力です。それは回避できない、絶対的なもの。

 だからこそ、せめて、今ある自分の命に、それを支えるすべてのものに感謝したい。自分から命を捨てるようなことはあってはならない。
 今、強く思います。

過疎化

 多分、私の住んでいる地区は過疎化してます。若者はどんどん外に出ていっていますし、よくよく考えてみたら、新しく家を建てる場所もない。これでは人は増えない。

 人が増えなければ、最終的には人がいなくなると。それでは困ります。人を増やさないといけない。じゃなければ生活が成り立たない。そうでしょ?

 人口が少なければ商売は成り立たない。商店は次第に減っていく。そのうち、食料を調達するのにも、市の中心部に出ていかなければならなくなる。

 この地区の場合、そうした中心部まで車で20分ほどかかります。バスは一時間に一本。世界に誇る赤字路線です。いつ廃止になるか分かりません。

 ちなみに、病院は市の中心部にあります。自分では車の運転が出来ない状態になって、そのうえバスがなくなったら・・・タクシーでも呼ぶんでしょうか。どうしましょう。

 むかしはどうしてたのかなぁ。

 むかしは町医者もありました。近くにはそこしかないんですから、生活するには十分な収入もあったでしょう。商店だってそうです。長距離の移動が不便である以上、地元の商店というのは貴重な存在だったはずです。

 また、農作物や魚をもらったりあげたり。もちつもたれつ。おとなりさんとのいい関係。

 今でもありますよ。うちもいろいろいただきます。でも、だいたいは、そういう、今でいう古き良き時代に青春時代を送った方たちからいただくのがほとんどです。

 いい関係も若い世代では薄れてしまっている。商店は既に閉めてしまった店が大半を占める。若者は外へ出ていく。

 この先どうなるのでしょうか。その時がくれば、なるようになるのでしょうか。

 生活していかなければなりませんから、何かしらの解決策は見つかるでしょう。人間は頭がいいはずですから、もっと早い段階で対処策が施されるかもしれません。

 でも本当は、もう行動を起こさなければ行けない次期に来ているのではないでしょうか。こうした地域は山ほどあるはずです。実際に、対処策を練っている自治体もあります。でも、なにもしていないところがほとんどではないでしょうか。

 私は不安です。市の提示する活性化政策も真剣さを感じませんし(別に市政批判をする気はありませんが)。もちろん、市民にも危機感があまり感じられません(もちろん、既にそうしたことをふまえて活動してらっしゃる方もいると思います。あくまでも私の主観です)。

 マスコミは周期的に、思い出したように過疎化の問題を取り上げたりしますが、よそ事、という捉え方をすることがほとんどではないでしょうか。

 また、危機感を感じても、だからといって、どうしたらいいのか分からないのではないですか?

 私もそうです。将来に不安を感じても、どうしたらその不安を解消できるのか分からない。

 このページを読んでくださったみなさん、これも何かの縁です。一緒に対策を考えてみませんか?

 とりあえず、考えるぐらいはしておくべきだと思います。このままほうっておいても、街が活性化するとは思えませんもん。

 ご意見は、「ぐちぐち」まで。

開発環境

 「ぐちぐち」でデータベース開発の話が出たので、何となく自分の開発環境を紹介したくなりました。対抗して「ぐちぐち」投稿してくださると楽しいです。

 パソコン:
   SONY PCG−767
   バイオなノートです。今時Pentium266です。かなり遅め。
   でも無理しなければたいていのことは大丈夫。
 ディスプレイ:
   12.1TFT。なんとこのサイズでXGA表示。だからこそこの機種を買ったんで
   すけどね。
   最近でもエントリーモデルのノートはSVGAが標準ですが、ゼヒXGAにしても
   らいたいものです。使い勝手が全然違うし。
 HDD 4.3G、MEMORY 64+64MB:
   メモリーは増設しました。HDDはちょっと少な目。ワープロのほか、Delphiと
   VC++入れたら残り0.6Gですって。今はVC++他、日常的には使わない
   物を削って、かわりに最近ACCESS2000が入りました。残り1G。つらい。

 うーん、評価の対象になるデータはこんなもんでしょうか。DelphiとVC++が分からない方は、今日の分のひとりごとは無視しましょう。その方がきっと幸せです。
 その気になって説明しだしたら正太寺てんぷるの性格が変わってしまいます。

 長いパソコンライフの中で、このバイオはかなりのお気に入りに属するのですが、でも最近、省スペースデスクトップが気になって・・・

 あれって、ノートみたく、スタンバイモードとかあるんでしょうか。内蔵機器の動きもメモリーへの通電以外は完全にストップするんでしょうか。それだったら欲しいなぁ・・・お金はないけど。貯金しようかな。

 とりとめがないので、この辺でやめときます。

読書の秋です

 久しぶりのお気に入り書籍紹介ぃー。
 今回は少しお堅くいってみます。

 今回紹介するのは以下の3冊。かなりメジャーな本です。既に読んだ方も多いことでしょう。

 ・「超」整理法
 ・続「超」整理法・時間編 タイムマネジメントの新技法
  野口悠紀雄著、中央公論社

 書類整理の切り札として著者が提唱するのが、「超」整理法。なかなかすごいものです。必要な物は、角2封筒と、それを縦に収納できる本棚のような物。・・・説明面倒だ。知りたい方は本屋さんへGO。

 とりあえず、机の上はきれいになるようです。

 ただ、私はテーブルでいろいろな作業をすることが多いのです。テーブルですから、角2封筒を収納するスペースなんかナシ。根本的に、自分には合わなかったりして。

 でも、いつか本格的に書類に囲まれる生活が来たときのために、チェキチェキ。

 「超」整理法3では、この整理法における、書類を捨てる作業という部分にスポットを当てた解説がされています。

 いわく、「超」整理法を使えば、不要な書類を不要な書類と断定しやすい。しかし、それでも書類を捨てるというのは怖いもの。だから、とりあえず、捨てる。とりあえず捨てたことにして、それでも必要なかったらいよいよ捨てる、ということです。

 確かに、書類にせよなんにせよ、物を捨てるという行為は大変な勇気を伴います。捨てると必要になったりするんですよね、これが。しかし、捨てなければいずれ家中が物であふれかえってしまいます。

 まあ、私の元にやってくる書類は微々たる物ですのでなかなか家中が書類で埋まるということもないのですが、この「とりあえず捨てる技術」というのは、服とか本とか、もともと対象としていない物にも応用が利くというのがすばらしい。

 最後に、続「超」整理法。これ、一番のお気に入りです。簡単に言うと、スケジュールをうまく組んで仕事に十分な時間を確保する方法を紹介したノウハウ本です。

 なにがいいって、著者自らが言うように、ノウハウ本に徹しているところがいいです。時間を確保してなにをするか、ということには全く触れず、時間をうまく確保する方法のみを追求しているというのがいいです。なんだか、潔くて好きです、そういうの。

 本の中では、ダブルブッキングしない方法とか、組織内コミュニケーションの見直しとか、いろいろと広範囲に渡って時間を節約する方法を紹介しています。中には、他人の時間をもらう方法という、とっても気になる話題もあります。

 詳しくは実際に読んでいただくのが一番ですが、実はこれ、管理職クラスの方に読んでいただきたい本です。だって、ここで紹介されている方法の一部は、平社員ではどうにもならないことなのです。組織を挙げて取り組む問題にも触れています。

 私は組織に属していない人間ですから、あまりうまく言えませんが、やっぱり日本の組織の持つ特異性による弊害というのはあると思うんです。それについての指摘が多いものですから、読んでいると日本の会社が不安になったりします。だから、ゼヒご一読を。

一所懸命と一生懸命

 子供たちの夏休みも終盤を迎え、社会人たちの夏休みはとうの昔に終わり、世の中静かになってきました。

  年輩の方はご存知でしょうが、「一生懸命」は、「一所懸命」の誤った表記です。ところが、「一生懸命」の方がなんとなく意味がつかみやすいためか、現在ではこちらの方が一般的に使われています。

 というよりも、「一生懸命」が正しい表記だと疑わない人も多いことでしょう。広辞苑に「一生懸命」が載ったという噂も聞きましたし。

 でも、「一生懸命」って、すごく大変なことだと思いませんか?だって、「一生」「懸命」ですよ。生きている間中、ずっと。

 私はイヤです。やっぱり、手抜くときは抜きたいし。もちろん、やるときはトコトンやりますが。

 そういう意味でも、私は「一所懸命」が好みです。「ひとところ」に「懸命」なんですから、これならなんとかなりそうです。

 ちなみに、この「ひとところ」。ずいぶん曖昧な表現ですね。多分、この「ところ」には、「場所」などという限定した意味ではなく、「状況」とか、「その時」とか、いろいろな意味が含まれているのでしょうね。

 「一生」を「懸命」に生きることも必要でしょう。人生は厳しい。生きることは大変です。でも、抜くときは抜くというような、いい意味のメリハリをつけて生きる方が、わたし好みです。

 みなさんはどうですか?
 がんばり屋さんもいいですが、たまには息抜きしましょ!

 ついでに、ぐちぐちしてくれるとうれしいなぁ。正太寺もお盆行事を終えてからはや十日、そろそろ盆疲れもとれてきました。

 そして、一番静かになったのは、目の前の浜名湖を荒らし回っていた水上バイク。別にやるなとは言いませんが、漁業区域内であることや、海岸から十メートルも離れていないところに民家があるということを考慮していただきたいものです。

 なかにはマフラー無いんじゃないかと思うようなのもありますし。そのうち規制されるんじゃないかなぁ、この辺も。

 話がそれました。

 私も今は、少し遅めの夏休み、という感じで、のんびりしてます。いろいろ予定は入って来るんですが、お寺の仕事じゃないものばかりで。地元社協からのお手伝い要請だったり。

 残暑厳しい昨今、みなさんはいかがお過ごしですか?夏ばてなどしないよう、健康には十分注意してお過ごしください。

 というわけで、実は残暑お見舞いだったりします。

 では。

夏休み

 子供たちの夏休みも終盤を迎え、社会人たちの夏休みはとうの昔に終わり、世の中静かになってきました。

 わが正太寺もお盆行事を終えてからはや十日、そろそろ盆疲れもとれてきました。

 そして、一番静かになったのは、目の前の浜名湖を荒らし回っていた水上バイク。別にやるなとは言いませんが、漁業区域内であることや、海岸から十メートルも離れていないところに民家があるということを考慮していただきたいものです。

 なかにはマフラー無いんじゃないかと思うようなのもありますし。そのうち規制されるんじゃないかなぁ、この辺も。

 話がそれました。

 私も今は、少し遅めの夏休み、という感じで、のんびりしてます。いろいろ予定は入って来るんですが、お寺の仕事じゃないものばかりで。地元社協からのお手伝い要請だったり。

 残暑厳しい昨今、みなさんはいかがお過ごしですか?夏ばてなどしないよう、健康には十分注意してお過ごしください。

 というわけで、実は残暑お見舞いだったりします。

 では。


活動紹介

 7/24、25の2日間に、地元の社会福祉協議会主催で、知的障害の方たちを対象に、一泊二日のイベントを行いました。

 当日参加のボランティアの方たちと障害をもった方、それと、私のように実行委員として関わっているボランティアスタッフ、総勢110人ほどで、ウォークラリーやったりキャンプファイヤーやったりと、楽しい時を過ごしました。

 私は主にキャンプファイヤー担当だったんですが、トーチに火をつけるのが早すぎて消えそうになるなど、しょっぱなからハプニング続きで、今考えてもよく無事に終わったなというかんじです。

 で、何でこんなことを書いたかと言いますと、単純に自分がどんな活動をしているのかという紹介みたいなものですね。ホームページだけ見ていると、結構ナゾな人物かなと思ったりして、、、

 それと、(時間が無いせいもありますが、)一月近くも更新がないので、なんか書きたい、でもネタがない、と言うわけだったりもします。

 そういうわけで、私はそんな人です。では、また。

事実

 晴れ 時々 魚

 私の住む町では実際にあるのです。ほんとに。信じて。


制作・著作 宗教法人正太寺